シンド・フジができるまで7 結婚編

よくあるドラマのワンシーンだと思いました。

 

成人式を終えたばかりの19歳はトイレの中で、くっきりと縦の赤いラインが入った妊娠検査薬を握りしめ、長い間ただただ呆然と立っていました。

 

「妊娠している・・・」

 

結婚するだの母になるだの、覚悟はおろか夢でも考えた事すらない年頃で、何よりも今は小さい頃からの夢がようやく叶う一歩手前です。

今でこそママモデルやママタレントは当たり前の世の中ですが、当時は結婚、出産はおろか、恋愛も公に出来ない時代でした。

 

私は目の前の現実があまりにも想定外だったため、まるでドラマでも観てるかのような、他人事のような気がしました。

 

そして悩んだ末、モデルを辞めて母になる決意をし、事務所に報告しに行きました。

ところが、事務所の女社長は私の話を聞いて一言、

 

「あ、そう。産んでもできるよ。」と軽く言いました。

 

あまりにもアッサリと、また思いがけない言葉に驚きました。

 

後で知ったのですが、彼女自身も若い頃はパリコレでも活躍したモデルでしたが、若くにご結婚され二児の子育てまっただ中だったのです。

だからこそ出た言葉だったのでしょう。

そうでなかったら、なりたい人なんていくらでもいるモデル界で、スタートから子持ちなんて面倒で相手にされなかったでしょう。

 

そんな彼女の言葉にも後押しされ、

2000年春、ハワイの丘の上の小さなチャペルで、私は永遠の愛を誓いました。

 

婚約指輪もドレスも新居も全部、義親が用意してくれたお子ちゃま夫婦の誕生です。

私はただ従うだけ、夢も希望もありません。遠慮して一番安いものを適当にぶだけ、妊婦なのに自暴自棄になっていました。

 

そして秋、10時間の陣痛に耐え、男の子を出産しました。

 

小さな手、小さな足、でも痛いほど強くおっぱいを吸う小さな口。私は生まれてきたわが子をしげしげ眺め、「お腹の中でこんなすごいものを形成してたのか!」と生命の神秘に驚きました。指先にしっかりと爪までついてるのです。

そして、「なんて可愛いの!!」これまで見たどんなものよりも愛しい。心の底から初めての感情が沸き起こりました。

その瞬間、私は身も心も母になりました。

 

慣れない育児と家事は大変でしたが、明るく温かい家庭を築きたいと思い、日々失敗も繰り返しながらも奮闘しました。

 

そして息子が7カ月になると、改めてモデル事務所の門を叩きました。

覚悟はしていましたが、やはり子持ちでモデルをするのは想像以上に厳しいものでした。

 

事務所の方針で子供の事は一切隠して仕事をしました。

ショーの最中に保育園から「子供が熱を出したので、すぐ迎えに来てください」と電話がかかってきても、私がすっ飛んで迎えに行きたいけどそういう訳にもいかず、またそれを誰にも相談する事もできず、ひとりであたふたする事も多々ありました。

仕事が終われば一目散に帰り、家事に育児です。

モデル同士や仕事関係の方とのお茶や食事などには一切付き合えず、仲間からは「あの子は愛想が悪い」とか「かわいそう」だと言われました。

一度だけ、東京のカメラマンに息子がいると打ち明けた事があります。

その人はそれを聞いて一言、

「それを言って得する事(仕事の上では)ひとつもないね」

…そんな時代でした。

 

 

私自身も、頭の中にも「子供を犠牲に自分の好きな事をしている」という罪悪感が常について回りました。

味方であってほしかった夫や義親からのプレッシャーも相当でした。

私は次第に仕事が入ると嬉しさよりも、子供の預け先やフォローなどの不安や心配の方が大きくなり、仕事に集中することができなくなりました。

そんな気持ちだからオーディションにも落ちてばかり、仕事もなく落ち込みました。

子供と一緒にいて安心させてあげたいという思いと、仕事で結果を出したいという焦りとで板挟みの日々が続きました。

 

しかしどんなに辛くても、私は夢をあきらめませんでした。

何故って?モデルという仕事が、好きで好きでたまらなかったから。ただそれだけ。好きな気持ちは抑えられませんでした。

だから私は必死に周りの認めてもらえるよう、家事も育児も文句をつけられないよう完璧を目指しました。

モデルとしてもハンデの分、他のモデルが遊んでいる間に、何倍も努力しました。

 

そしていつしか少しずつモデルとしてのステップを上がり、ママとしても友達から相談を受けるほどアイディアやテクニックを身につけ、すっかり肝っ玉母ちゃんになりました。

 

 

(何よりもこの子がいるから頑張れました)