シンド・フジができるまで3 小学高学年編

「躁うつ病」

「統合失調症」

恐らく母はこの二つの病を患っていたのだろう。

随分大人になってからそう推測しました。

 

ネットもない、今のように精神の病についての情報や理解がない時代に、

母親もそして父親も苦しんでいたのだと思います。

 

私は学校から帰ると、まず玄関を開ける前に一呼吸整え、覚悟します。

「今日の母はどうだろうか」

 

調子のいい日はとても優しくて明るくて、美味しい料理をたくさん作ってくれます。ああ、幸せ。

しかし調子の悪い日は「サタンよ去れ!!」などと大声で叫び、私には見えない何かと戦っています。その時はご飯など作ってくれません、何日も部屋に閉じこもって出てこないこともしょっちゅうでした。私の事など目に入らない様子でした。

この天国と地獄の繰り返しのスパンが1日だったり2ヶ月だったり、全く読めないので、毎日ドキドキしていました。

授業中も「たったこの今、お母さんが家で自殺していたらどうしよう」という不安に駆られ、一刻も早く家に帰りたくて、ソワソワと窓の外ばかり見ていました。

 

ある日父は母を精神科医へ連れて行きました。

しかし病気だと認めない母は抵抗する→薬を拒絶→父が無理やり飲ませる→薬を毒だと言い出す→父が母を精神病棟へ閉じ込めよう企んでいると騒ぎ出す→父が激怒して暴れる→母がヒステリックに叫ぶ…

何度となくそんな大嵐が来ました。そんな時はひたすらベットの中で耳をふさぎ、ただ耐えるしかありません。あれが欲しいだとか、お腹が空いただとか、子供らしい欲求を口にするのも憚れました。

 

大阪でエリートサラリーマンだった父は、田舎の工場勤めになり、画家の夢も叶わず母の病気に振り回される日々、相当ストレスがあったと思います。

父はやがて、躾と称して私たちに手を挙げることが多くなりました。

その当時は子供が悪い事をすれば手を挙げられるというのは、普通だったかもしれません。

しかし子供ながらにもこれは理不尽だと思わざるを得ない状況も多々ありました。

ある日、ぶたれた頬を冷やすすべも知らずにさすっていた私に、母は「ごめんね、お父さんはね小さい時に父親を亡くして、父親を知らないのよ。愛し方がわからいだけだから許してあげてね」と涙ながらに言いました。

今なら「えッ!あなたがそれ言いますのん?!」って軽く母親にツッコミ入れれるかもしれません。

しかし私はその言葉で、すべてを受け入れました。

 

学校ではいじめられ、家では怯え、

 

 

さ み し か っ た 。

 

 

赤い実にくちびる染めて

空を見上げる

これ以上辛い日が来ませんようにと

飛び石踏んだ

からたち野道 花ふく小道

泣いたらだめよと虫の音小唄

からたち野道 はるかな小道

あのひとのもとへと続く道

        THE BOOM「からたち野道」

この歌はこの頃よりもう少し大きくなった中学生の頃によく聴いていた曲です。私の心境に寄り添い支えになってくれたと、今も聴くと涙が溢れます。

 

小学5年、林間学校にて。