シンド・フジができるまで9 母の死

母の様子が変だと気が付いたのは、娘の初節句で実家へ子供たちと姉と一緒に帰省した時でした。

母は元々はふくよかな体型でしたが、その時は少し痩せて見えて、表情が暗かったのです。みんなでひな祭りのお祝いをしましたが、あまり箸をつけず、早々に部屋に引き上げていきました。

私たちは母の気持ちの浮き沈みには慣れっこだったので、準備で疲れたのかな?ぐらいに思い、この時はあまり気に留めませんでした。
しかしその2か月後に母が大阪まで会いに来ましたが、その変わり果てた姿に愕然としました。
見た目が以前の半分くらいに痩せていて、これまで裸眼だったのに、ものすごく分厚いレンズの眼鏡をかけています。まるで別人です。

「お母さん大丈夫?」と心配するも、「何が?全然よ」と返されて、その見た目以外には変化は見られませんでした。
母が帰ってから父に事情を聞くと、やはり春ぐらいから様子がおかしいと。
しかしいくら病院へ行こうと進めても頑なに拒むので父も困っていると言っていました。

それから頻繁に電話で母の様子を聞きましたが、失禁をよくするようになっただとか、食べ物はろくに食べず、冷たい飲み物ばかりやたらと欲しがる、姿勢まで悪くなってきたといった身体的な事から、
口を利かなくなる、出かけるのに準備が3時間くらいかかるから始まり、心配する父に対して口汚く罵りだし、救急車を呼ぶと「こいつ(父)は私に保険金をかけて殺そうとしている!!」と大暴れしたり(救急車は本人に同意がなければ乗せられない)と内面的な事まで、事態はどんどん悪化していきました。

家族で何度も説得しましたが、本人がどんな提案も拒否し、逆に攻撃的になるので、どうしていいのかわからず、何をしても落ち着かない日々でした。
夏休みに帰ると、クーラーをガンガンの部屋でこたつに入って(寝床にしてました)仰向けになっている母の姿は、何か重篤な病にかかっている事は一目瞭然です。あまりにも、あまりにも、もう、もう…。

「お母さん、お願いだから病院へ行って!!」

しかし母は、身体をゆっくりと起こし、氷をたくさん入れた炭酸ジュースをゆっくりと口に含みながら、
「大丈夫よ、お母さんは死なないの」とほほ笑むのでした。

これは私を安心させるために言ってるのではないのです、本気でそう思っている様子でした。あとは魂がどうのこうのということを延々語っていました。

夏の暮れ、父は母を愛媛県の今治へと連れて行きました。
滋賀の家ではスーパーまで30kmほども離れていましたが、今治の母の生家では徒歩圏内にスーパーも病院もあったから、看病するにも何かと便利だからです。

しかしこの頃には、心配する父の事をすっかり拒絶し、近づくと姿が見えなくなるまで罵声を浴びせられると、父はすっかりお手上げでした。

父もかなり憔悴していたので、滋賀に一旦帰らせ、兄弟3人で様子を見に行くことにしました。

「死んでいたらどうしよう」緊張しながら今治の家の鍵を開け、部屋に入ると、
そこには母がミイラのようにガリガリにやせ細り、黄土色の肌、目は窪み落ち、異臭を放ち、滋賀と同じようにクーラーをガンガンに効かせた部屋で寝そべっていました。

医療が発達していない昔は、人は皆このように朽ち果てていったのだろうかと、不謹慎にも思いました。

私たちは背筋が一瞬で凍りましたが、母は息をしていました。そして私たちの訪問を喜んでくれて、話すのもやっとでしたが、どこそこへご飯を食べに行こうなんて言っていました。しかし母はもう立つことも、身体を起こすことも不可能でした。
そしてこっそり救急車を呼びました。私たちは影から見守り、民生委員の方に説得をお願いしましたが、あっさりと乗ってくれました。母も限界だったようで、私たちに向かって「助けを天に求めたら、神様が救急車をよこしてくれたのよ」と自慢していました。
衰退が激しいので、点滴と投薬である程度回復してから検査をすることになりました。相変わらず父が前に出ると激怒するので、その日から兄弟が順番で看病に愛媛まで通う事になりました。

清潔なベッドで点滴しながら眠っている母の姿をみて、私たちは何か月ぶりかの安堵のため息をつきました。

しかし安心したのは束の間で、母は少し回復すると今度は、薬を拒絶し、点滴も外せと言いだしました。
看護師さんたちにも何やらわがままや難しい事を言って困らせ始めました。

先生から精神病棟へ移す相談をされました。精神病棟なら本人が拒否しても治療はできると。このまま点滴をしなければ、また衰退する一方です。

母がそれを絶対に拒否することはわかっていました。しかし検査すらできなければ、母が今どんな状況で余命があと幾らかもわかりません。

私たちは悩みに悩んで、望みがあるならと病棟を移ることに同意をしました。

精神科病棟へ移る時は必ず家族がついていなければいけない規則だそうです。
その日は姉が看病で、私は大阪にいました。

姉によると母は、もうすぐ姉の誕生日ということで、「〇○ホテルへ行ってお祝いしよう」などと言って相変わらず意識はしっかりしていたそうです。

そんな中、先生と看護師さんが病室に入ってきて、これまた規則ですが、本人にこれから精神病棟へ移りますよとはっきりと説明をしました。

母はやはり怒り、首を横に振りました。
そしてどこにそんな余力があったのか、激しく暴れ喚き散らして抵抗する母は3人がかりで押さえられ、手足を鎖でベッドに繋がれて、ベッドごと精神病棟へと運ばれていったそうです。

姉は電話口でそんな様子を涙声で話し、母は私が精神病棟へ送りやったと恨んでるだろうなと言いました。
私は姉にそんな役目をさせてしまったことを、心からすまなく思いました。
精神病棟へ移って2日後、母は静かに息を引き取りました。

結局検査は出来なかったので「衰弱死」とされました。胸から脇にかけて分泌液が出ていたので、恐らく乳がんを患って、それが全身に転移しただろうと先生は言いました。
新大阪駅のホームで姉と落ち合い、新幹線に飛び乗りましたが、最期には間に合いませんでした。

私は新幹線が走り出すと、つい糸が切れたかのように大声をあげて泣いてしまいました。
これまでは母の前でも子供たちの前でも決して涙を見せまいと堪えてきたのに。

よくドラマで余命宣告された人が家族に「死にたくない」と言って泣くシーンを見ますが、きっと大切な人がそんな事を言ったらとても辛いでしょう。

しかしそんな事を言われずに何も逝かれてしまうのは、ある意味それ以上に辛いものでした。
私は母と抱き合って泣きたかった。

一緒に戦ってあげたかった。

母は一体どんな気持ちだったのか、

私たちのしたことはベストだったのか、
わからない。
母は64歳、私は27歳でした。

自分のメニエール病に続いて母の死、健康の事をますます考えさせられました。

今でも新大阪のプラットホームに立って、出発のベルが鳴るのを聞くと、
私はいつもぎゅーっと胸が締め付けられます。