5/31~6/6 西宮阪急催事出店します。

 

風薫る季節となりました。

この時候の挨拶でおなじみの『風薫る』 ですが、

実際にこの季節の風に匂いがついていることを皆さんご存知ですか?

新緑が芽吹くこの季節、新芽がたくさんの匂いを放出しています。

だから都会でも、意識して息を吸えば、遠く山から流れる爽やかな緑の香りが嗅ぎ取れるそうですよ。

 

さて、寒さとは無縁のこの季節は、冷えを感じることは少なくなりますが、

肩こりや腰痛、病気ではないのに身体の調子が悪い等の未病(=病気まではいかない不調状態)

でお悩みの方はいらっしゃいませんか?

その不調、血液循環の悪さが原因かもしれません。

そういう方は決まって低体温です。

 

体温が1℃下がると免疫力が30%ダウンします。

過ごしやすい季節だからと言って、無防備に冷たいものばかり摂取しては、

体温の低下=身体の不調を招きます。

「冷えは万病の元」の考え東洋医学が根ずく中国では、

ビールだって常温で飲むそうです。

キンキンに冷えたビールは美味しいですが、くれぐれも程々に。

 

さて、明日2017年5月31日から6月6日まで、西宮阪急百貨店にて催事出店します。

(写真は川西阪急百貨店で催事販売した時のものです)

定番のNUXシリーズから黒糖ジンジャーの他にも、ネットにはない商品も多数ご用意しております。

川西や宝塚で大変好評だったコットン100%のレギンスも、残りわずかですがご用意しました。

 

お近くにお越しの際は是非とも、1階バスリラクシングコーナーまで。

皆様のご来店を心よりお待ちしております。

シンド・フジができるまで3 小学高学年編

「躁うつ病」

「統合失調症」

恐らく母はこの二つの病を患っていたのだろう。

随分大人になってからそう推測しました。

 

ネットもない、今のように精神の病についての情報や理解がない時代に、

母親もそして父親も苦しんでいたのだと思います。

 

私は学校から帰ると、まず玄関を開ける前に一呼吸整え、覚悟します。

「今日の母はどうだろうか」

 

調子のいい日はとても優しくて明るくて、美味しい料理をたくさん作ってくれます。ああ、幸せ。

しかし調子の悪い日は「サタンよ去れ!!」などと大声で叫び、私には見えない何かと戦っています。その時はご飯など作ってくれません、何日も部屋に閉じこもって出てこないこともしょっちゅうでした。私の事など目に入らない様子でした。

この天国と地獄の繰り返しのスパンが1日だったり2ヶ月だったり、全く読めないので、毎日ドキドキしていました。

授業中も「たったこの今、お母さんが家で自殺していたらどうしよう」という不安に駆られ、一刻も早く家に帰りたくて、ソワソワと窓の外ばかり見ていました。

 

ある日父は母を精神科医へ連れて行きました。

しかし病気だと認めない母は抵抗する→薬を拒絶→父が無理やり飲ませる→薬を毒だと言い出す→父が母を精神病棟へ閉じ込めよう企んでいると騒ぎ出す→父が激怒して暴れる→母がヒステリックに叫ぶ…

何度となくそんな大嵐が来ました。そんな時はひたすらベットの中で耳をふさぎ、ただ耐えるしかありません。あれが欲しいだとか、お腹が空いただとか、子供らしい欲求を口にするのも憚れました。

 

大阪でエリートサラリーマンだった父は、田舎の工場勤めになり、画家の夢も叶わず母の病気に振り回される日々、相当ストレスがあったと思います。

父はやがて、躾と称して私たちに手を挙げることが多くなりました。

その当時は子供が悪い事をすれば手を挙げられるというのは、普通だったかもしれません。

しかし子供ながらにもこれは理不尽だと思わざるを得ない状況も多々ありました。

ある日、ぶたれた頬を冷やすすべも知らずにさすっていた私に、母は「ごめんね、お父さんはね小さい時に父親を亡くして、父親を知らないのよ。愛し方がわからいだけだから許してあげてね」と涙ながらに言いました。

今なら「えッ!あなたがそれ言いますのん?!」って軽く母親にツッコミ入れれるかもしれません。

しかし私はその言葉で、すべてを受け入れました。

 

学校ではいじめられ、家では怯え、

 

 

さ み し か っ た 。

 

 

赤い実にくちびる染めて

空を見上げる

これ以上辛い日が来ませんようにと

飛び石踏んだ

からたち野道 花ふく小道

泣いたらだめよと虫の音小唄

からたち野道 はるかな小道

あのひとのもとへと続く道

        THE BOOM「からたち野道」

この歌はこの頃よりもう少し大きくなった中学生の頃によく聴いていた曲です。私の心境に寄り添い支えになってくれたと、今も聴くと涙が溢れます。

 

小学5年、林間学校にて。

 

 

 

シンド・フジができるまで2 幼少期~小学低学年編

前回、箕面に住んでいたころはごく普通の家庭だったと書きましたが、

私が幼かったからわからなかっただけで、大人になって姉に聞くところによると、結構大変だったようです。

まず父親が画家になると言って会社を辞めたそうです。

個展など開いていましたが、画家として成功するには道は険しい。母の収入だけでは家のローンに子供3人養うには足りず、トラック運転手などアルバイトをしていたようです。

母は美人で聡明、PTAの役員や障害者施設でボランティアなどをしたりと大変社交的でしたが、その一方で何か精神的に追い詰められていたのでしょうか、新興宗教にハマっていました。

姉と兄は有名私立幼稚園へ通い、家でも厳しく躾けられたそうです。

(私だけは近所の小さな教会幼稚園に入れられ、野放しで育てられましたw)

それでも毎晩食後はみんなで犬散歩に出かけたり、週末は外食や銭湯へと、家族団らんの時間も多く、楽しい思い出がいっぱいでした。

 

そんな一家はある夏休み、信州へキャンプに出掛けました。

信州でテントを立てて一晩過ごすと、思いのほか寒い!という事で予定を変更。

南下して滋賀県の琵琶湖へ行くことになりました。

湖北の湖水浴場で2,3泊したように記憶しています。

私たちが楽しく琵琶湖で泳いでいる間、父は湖水浴場のおじいさん(経営者)と何やら話し込んでいる様子でしたが・・・

 

その年の冬、私たち一家は箕面の家を売り、滋賀県・伊香郡西浅井町(現在は近隣6町と合併し長浜市となる)に移り住みました。

私は小学1年、兄は3年、姉は6年生でした。あの時信州が寒くなければ、縁もゆかりもないこの村に越すことはなかったでしょう。

200坪の土地に建てた新居は、トイレは汲み取り式、お風呂は薪で焚く、目の前琵琶湖、裏は山。何よりも集落より1キロも離れた場所に一軒だけという、「大草原の小さな家」を彷彿とさせるザ・田舎っぷりです。

小学校は歩いて50分もかかりました。豪雪地帯だったので、冬はその倍の時間がかかりました。

都会からきた転校生は、はじめは人気者でした。みんな優しく声をかけてくれました。

ところがいつの頃からか、いじめられるようになりました。

 

(現在愛媛県に住む父親が、つい最近得意げに「子供のいじめってのはなぁ、まずは親から始まるんだ。親がどこか変わっていて、それを親同士が話しているのを子供が聞いて、今度は子供同士であいつの親はおかしいって風に広がるんだ」と言っていました。

・・・お父さん、私それ、身をもって知ってる。思わず苦笑いしたものです。)

 

小さな集落で、母はキリスト教の普及活動を始めました。

学校の帰り道に母が教会の人たちと聖書を配っているのを見た時は、穴があったら入りたいと心底思いました。

集団登校で一緒だったAちゃんは、みんなの前で「私のお母さんがまりこちゃんのお母さんはおかしいから、一緒に遊んじゃダメって言われた」と言い放ちました。

 

私は“クリスチャンはいつの時代も迫害される”を幼くして実感しました。

マタイによる福音書第5章11-12節にこう記されてあります。

「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」

教会幼稚園を卒園し、滋賀に引っ越してからも毎週日曜日は福井県の教会まで連れていかれていた私は、その頃自然と聖書の言葉が浸透していたと思います。

それでも、どうしてもその状況を喜んだり、幸いだと思う事は出来ませんでした。

 

母を恥じ、自分を恥じました。

神様を信じるどころか、恨みました。

 

「今日一日どうか目立ちませんように」

毎日そう願って、何とか一日をやり過ごしていたと覚えています。

 

ところが、この後、学校以上に家が辛くなるのです。

(農道を通った帰り道、自然の美しさには幾分心が癒されました)

続く

シンド・フジができるまで1 誕生編

温活ショップ・SHINDO FUJIをいつもご愛顧いただきありがとうございます。

おかげさまでもうすぐ創立から2年になります。

 

ここで少し、私がこの会社を立ち上げた経緯をお話したいと思います。

私が温活と出会ったのは11年前、病気をしたのがきっかけでした。

なのでそこからお話をしようかと思いましたが、

起業して度々感じたのは、温活をライフスタイルに取り入れるそれ以前の生活があったからそこに至り、私がこれまで生きてきた道すべてがここに繋がっていたのだという事です。

例えば温活には食生活がとても重要なポイントになりますが、私の食生活のベースを作ったのは子供の頃の環境です。

極端に言えば、今私がモデルをしたり会社を作ったりしているのは、生まれたとき時から、いや親の時代から(もっと言えば先祖の代からかも)影響しているのではないかと思います。

 

前書きが長くなりましたが、

そういうわけで会社を作った経緯を、長くなりそうですが、生まれた時からお話ししようと思います。

ご興味のない方は、どうぞ飛ばしてくださいね。

 

 

1980年2月18日、大阪・庄内で私は生まれました。

母親は当時ピアノの先生でした。

町のピアノ教室の先生ではなく、音大受験生を専門に教える、かなりスパルタな教師だったと聞きます。

私を産む2時間前までレッスンをしていたそうです。

おかげで私はクラシックを勉強したことはありませんが、耳が憶え、身体に染み付いています。

 

それから出産3週間後、箕面へ引っ越しをしました。

父親は当時三井物産に勤め、6歳上の姉と2歳上の兄、雑種犬が一匹、

一見ごく普通の家庭でした。

 

ひとつだけ違っていたのは、母親が少しおかしいと子供ながら感じた点です。

 

その頃の忘れられないエピソードがあります。

母はある日、私たち兄弟3人を正座させ、神妙な面持ちでこう言いました。

「あなたたちよく聞きなさい、今日この世が終わります」

ええ?どういう事?今日私死んじゃうの?

4,5歳だった私は心の中でパニックです。

そして母はこう続けました。

「でも安心して、この世が滅びる前に神様が一瞬で救ってくださるから、覚悟だけしておきなさい」

兄弟三人は相談するでもなく、ただただ黙って解散しました。

私は5歳にして死を間近に感じ、途方に暮れ、泣きじゃくるしかできませんでした。

ところが次の日は普通にやってきました。

母親は何のフォローもなし。

そんな母に聞く勇気もなく、とりあえず生き延びたことに胸をなでおろしました。

 

 

現在母は他界していますが、時々夢に出てきます。

大抵の夢は、母が生き返り普通の顔して私の前に現れるのです。

そんな事はありえないのですが、私は目が覚めると、夢だった事に逆に驚きます。

あの母だったら現実に起こりうると、信じさせてしまうほどの強烈な人だったのです。

 

箕面での生活は、多少母親が変で、父親との喧嘩が時々警察を呼ぶレベルだったくらいで、まだまだ幸せだったと思います。

そんな暮らしが小学1年から激変します。

 

 

(時代を感じるこの写真・・・丈夫で育てやすい子でした)

続く