シンド・フジができるまで10 起業の芽

自分の病気と母の死を経験し、今日こうして普通に生きているという事が、いかに有り難い事かを身に染みてわかりました。

それからというもの、冷え性関連の本を読み漁り、温活法や温活グッズを片っ端から試していきました。

「冷えは万病の元」と言いますが、

身体は冷えると血行が悪くなり、血行が悪いと身体に必要な栄養素が行き届かず、そこから不調や病が生まれるのです。

先の言葉はことわざくらいにしか思っていませんでしたが、すべての病の根源は冷えなのだと思い知らされました。

そして身体は一昼夜で冷え性や低体温になるのではなく、日々の生活習慣から少しづつ積み重ねでなるのだという事も知りました。               習慣によって生まれた冷えから脱却するのは、その冷える習慣を温める習慣へと変えないといけません。これもまた一日二日で改善されるものではなく時間がかかるものでした。

しかし正しい温活習慣を手に入れていしまえば、病気知らずの毎日です。

私は温活を始めてから2年で完全にメニエール病の症状は出なくなり、3年もすると風邪一つ引かなくなりました。                       そして温活を続けていると思わぬ副産物に出会います。            それ肌や髪まできれいになり、特別なダイエットなどしなくてもスタイルキープが可能になりました。

血行が良くなれば美容面でも効果を発揮する、よく考えれば当たり前ですが、これは嬉しくてますます温活にハマりました。

そうして温活歴が10年近くなったところ、私は35歳、モデルのキャリアも上がって、新人モデルのウオーキングレッスンの仕事もしていました。

モデルという仕事は自分自身が商品なので非常に苛酷です。モデルになりたての若い女の子たちが無理なダイエットをして生理不順になったり、体調を崩したりするのを何度も目の当たりにしました。

そしてその子たちが口々に冷えや低体温で悩んでいると言います。

このままでは健康を害し、将来不妊や重篤な病に繋がりかねないと心配しました。

しかし、私が心配していかに健康が大事で温活しなさいと言ったとて、今は若くて健康だから響きません。

私もそ歳の頃は、健康より美容の事しか考えていませんでしたから気持ちはすごくわかります。

私は数々の温活グッズを試した中で特に気に入ったものが、絹と綿の靴下を交互に4枚重ねて履く「冷えとり靴下」というものがありましたが、当時市販されていたものはナチュラル志向が強いものが多く、ファッション性重視の彼女たちには、薦めてもその良さに共感はしてもらえませんでした。

 

 

温活を健康法と言わず、美容面からアプローチすれば、この子たちにも響くのではないかな?

もっとファッショナブルでかっこいい冷えとり靴下なら履いてくれるのではないかな?

 

そんな思いが、その時ほんの小さく、沸きました。

 

その小さな思いがのちに私の人生を大きく動かすとは、その時は知る由もなくでした。

 

 

シンド・フジができるまで9 母の死

母の様子が変だと気が付いたのは、娘の初節句で実家へ子供たちと姉と一緒に帰省した時でした。

母は元々はふくよかな体型でしたが、その時は少し痩せて見えて、表情が暗かったのです。みんなでひな祭りのお祝いをしましたが、あまり箸をつけず、早々に部屋に引き上げていきました。

私たちは母の気持ちの浮き沈みには慣れっこだったので、準備で疲れたのかな?ぐらいに思い、この時はあまり気に留めませんでした。
しかしその2か月後に母が大阪まで会いに来ましたが、その変わり果てた姿に愕然としました。
見た目が以前の半分くらいに痩せていて、これまで裸眼だったのに、ものすごく分厚いレンズの眼鏡をかけています。まるで別人です。

「お母さん大丈夫?」と心配するも、「何が?全然よ」と返されて、その見た目以外には変化は見られませんでした。
母が帰ってから父に事情を聞くと、やはり春ぐらいから様子がおかしいと。
しかしいくら病院へ行こうと進めても頑なに拒むので父も困っていると言っていました。

それから頻繁に電話で母の様子を聞きましたが、失禁をよくするようになっただとか、食べ物はろくに食べず、冷たい飲み物ばかりやたらと欲しがる、姿勢まで悪くなってきたといった身体的な事から、
口を利かなくなる、出かけるのに準備が3時間くらいかかるから始まり、心配する父に対して口汚く罵りだし、救急車を呼ぶと「こいつ(父)は私に保険金をかけて殺そうとしている!!」と大暴れしたり(救急車は本人に同意がなければ乗せられない)と内面的な事まで、事態はどんどん悪化していきました。

家族で何度も説得しましたが、本人がどんな提案も拒否し、逆に攻撃的になるので、どうしていいのかわからず、何をしても落ち着かない日々でした。
夏休みに帰ると、クーラーをガンガンの部屋でこたつに入って(寝床にしてました)仰向けになっている母の姿は、何か重篤な病にかかっている事は一目瞭然です。あまりにも、あまりにも、もう、もう…。

「お母さん、お願いだから病院へ行って!!」

しかし母は、身体をゆっくりと起こし、氷をたくさん入れた炭酸ジュースをゆっくりと口に含みながら、
「大丈夫よ、お母さんは死なないの」とほほ笑むのでした。

これは私を安心させるために言ってるのではないのです、本気でそう思っている様子でした。あとは魂がどうのこうのということを延々語っていました。

夏の暮れ、父は母を愛媛県の今治へと連れて行きました。
滋賀の家ではスーパーまで30kmほども離れていましたが、今治の母の生家では徒歩圏内にスーパーも病院もあったから、看病するにも何かと便利だからです。

しかしこの頃には、心配する父の事をすっかり拒絶し、近づくと姿が見えなくなるまで罵声を浴びせられると、父はすっかりお手上げでした。

父もかなり憔悴していたので、滋賀に一旦帰らせ、兄弟3人で様子を見に行くことにしました。

「死んでいたらどうしよう」緊張しながら今治の家の鍵を開け、部屋に入ると、
そこには母がミイラのようにガリガリにやせ細り、黄土色の肌、目は窪み落ち、異臭を放ち、滋賀と同じようにクーラーをガンガンに効かせた部屋で寝そべっていました。

医療が発達していない昔は、人は皆このように朽ち果てていったのだろうかと、不謹慎にも思いました。

私たちは背筋が一瞬で凍りましたが、母は息をしていました。そして私たちの訪問を喜んでくれて、話すのもやっとでしたが、どこそこへご飯を食べに行こうなんて言っていました。しかし母はもう立つことも、身体を起こすことも不可能でした。
そしてこっそり救急車を呼びました。私たちは影から見守り、民生委員の方に説得をお願いしましたが、あっさりと乗ってくれました。母も限界だったようで、私たちに向かって「助けを天に求めたら、神様が救急車をよこしてくれたのよ」と自慢していました。
衰退が激しいので、点滴と投薬である程度回復してから検査をすることになりました。相変わらず父が前に出ると激怒するので、その日から兄弟が順番で看病に愛媛まで通う事になりました。

清潔なベッドで点滴しながら眠っている母の姿をみて、私たちは何か月ぶりかの安堵のため息をつきました。

しかし安心したのは束の間で、母は少し回復すると今度は、薬を拒絶し、点滴も外せと言いだしました。
看護師さんたちにも何やらわがままや難しい事を言って困らせ始めました。

先生から精神病棟へ移す相談をされました。精神病棟なら本人が拒否しても治療はできると。このまま点滴をしなければ、また衰退する一方です。

母がそれを絶対に拒否することはわかっていました。しかし検査すらできなければ、母が今どんな状況で余命があと幾らかもわかりません。

私たちは悩みに悩んで、望みがあるならと病棟を移ることに同意をしました。

精神科病棟へ移る時は必ず家族がついていなければいけない規則だそうです。
その日は姉が看病で、私は大阪にいました。

姉によると母は、もうすぐ姉の誕生日ということで、「〇○ホテルへ行ってお祝いしよう」などと言って相変わらず意識はしっかりしていたそうです。

そんな中、先生と看護師さんが病室に入ってきて、これまた規則ですが、本人にこれから精神病棟へ移りますよとはっきりと説明をしました。

母はやはり怒り、首を横に振りました。
そしてどこにそんな余力があったのか、激しく暴れ喚き散らして抵抗する母は3人がかりで押さえられ、手足を鎖でベッドに繋がれて、ベッドごと精神病棟へと運ばれていったそうです。

姉は電話口でそんな様子を涙声で話し、母は私が精神病棟へ送りやったと恨んでるだろうなと言いました。
私は姉にそんな役目をさせてしまったことを、心からすまなく思いました。
精神病棟へ移って2日後、母は静かに息を引き取りました。

結局検査は出来なかったので「衰弱死」とされました。胸から脇にかけて分泌液が出ていたので、恐らく乳がんを患って、それが全身に転移しただろうと先生は言いました。
新大阪駅のホームで姉と落ち合い、新幹線に飛び乗りましたが、最期には間に合いませんでした。

私は新幹線が走り出すと、つい糸が切れたかのように大声をあげて泣いてしまいました。
これまでは母の前でも子供たちの前でも決して涙を見せまいと堪えてきたのに。

よくドラマで余命宣告された人が家族に「死にたくない」と言って泣くシーンを見ますが、きっと大切な人がそんな事を言ったらとても辛いでしょう。

しかしそんな事を言われずに何も逝かれてしまうのは、ある意味それ以上に辛いものでした。
私は母と抱き合って泣きたかった。

一緒に戦ってあげたかった。

母は一体どんな気持ちだったのか、

私たちのしたことはベストだったのか、
わからない。
母は64歳、私は27歳でした。

自分のメニエール病に続いて母の死、健康の事をますます考えさせられました。

今でも新大阪のプラットホームに立って、出発のベルが鳴るのを聞くと、
私はいつもぎゅーっと胸が締め付けられます。

シンド・フジができるまで8 病気編

桜が美しく舞い散る26歳の春、私は二人目の、ふっくらとした可愛い女の子を産みました。

 

長男の頃から時は流れ、芸能人が結婚して子供を産んでも仕事を続ける事が珍しくなくなり、私を取り巻く環境もガラリと変わりました。

「ママでモデルなんてかっこいい」

数年前とは真逆の事を言われて、戸惑い半分、けれど随分と仕事もやりやすくなりました。

桃色の娘の頬を撫でながら思う、「頑張ってよかった」と。

 

 

娘は4ヶ月にもなると夜はまとめて寝てくれるようになったので、育児も少し楽になりました。

そんな頃、病は急にやってきました。

 

夜中にふと目が覚め、見上げた天井が不思議とグニュ~っと歪んで見えました。

見ていると段々気持ち悪くなり、目をギュッとつぶって無理やり眠りました。

そして翌朝、今度は起きた瞬間から激しいめまいに襲われました。

頭をわずかに上げたところで耐えきれず、嘔吐しました。

 

めまいは止まらず、吐き切って生唾しか出ない状態でも吐き続け、歩行も困難に抱えられて病院へ行きました。

そして診断されたのは、

「メニエール病」

初めて耳にした病名でした。

 

メニエール病とは、激しい回転性のめまいと難聴、耳鳴り、耳閉感の四症状が同時に重なる症状を繰り返す内耳の疾患とのこと。

厚生労働省の特定症患に指定されている難病で、原因は不明ですが、ストレスが強く相関しているのだと聞きました。

 

昨日まで、いや、眠りに就くその瞬間まで何の前兆もなくピンピンしていたのに・・・。

私のメニエール病の症状は例えるなら24時間ずっと船酔い(しかもかなり大嵐のなかの航海です)、時々少しマシの車酔いといった感じでした。

そして残念なことにこの病気の根本的な治療法は当時は見つかっていませんでした。

ただ発作時にその症状を緩和させるための薬物による対症療法だけでした。

私にはその薬すらちっとも効きませんでした。

 

その日から家事や育児はおろか、立ち上がることも出来ない完全な寝たきり生活になりました。

田舎に帰り、しばらく療養しました。

吐いてばかりで何も食べれず、見る間に痩せ細っていきました。

当時5歳の息子は、私を気遣ってとても利口に過ごしていました。発作が起きると真っ先に洗面器をもって駆けつけて背中をさすってくれました。

娘はまだ寝てばかりの赤ちゃんだったので、泣けば何とか身体を起こしてオムツ換え、その後自分も横になりながら授乳し、再び寝かせることが出来ました。

寝ても覚めても襲うめまいと吐き気。吐いても吐いても良くならない気分。そして家族のために何もできないどころか迷惑をかけている自分の不甲斐なさ・・・。

 

「死にたい」

何度も思いました。死ねばこの気持ち悪さが止められる。

決して死ぬような病気ではありませんが、気持ちが死に近づく病でした。

 

けれど、ふと横を見るとすやすや眠る娘の顔。こんな状態でも私はおっぱいを与えることによってこの子の命を繋いでいるのです。

私はその瞬間この娘から必要とされていると実感できました。

幼少期ずっと孤独だった私は、大人になってからは頑張って努力することでしか必要とされる価値のない人間だと思ってしまう節がありました。

どんなに辛くても無理に笑って無理に頑張って・・

「愛されたい」

たったひとつの願いのために・・・。

 

それから2ヶ月ほど経つと、車酔い程度まで回復しました。

とはいっても一日に何度かは発作が突然襲うので、家事は休み休み出来ましたが、怖くて外出は出来ませんでした。

ネットで何十年も患っている人も多いと知って、私も一生このままなのかなと落胆する日もありました。

けれどある時ふと思い立ち、またちょうど自宅から3分ほどの距離に鍼灸院があったので、フラフラと尋ねてみたのです。

鍼は血行を促進し、体内の「気」のバランスを整える事で、身体に起きているアンバランスを整えるそうです。

それは運命の導きだったのでしょうか。

鍼に通うごとにほんの少しづつ回復していきました。

調子が良くなったと思って張り切ると、疲れてぶり返し、完治するまでには2年近くかかりましたが、とっても元気になりました。

後遺症で右耳の聴力は少し悪いままです。それは一生治らないと言われています。

 

それでも私は病気を通じて日々健康に過ごせている当たり前が、決して当たり前ではなく、とても有難い事なのだと気が付けたので、よしと思っています。

しかも、この病気から鍼灸院を訪ねた事が、のちに10年ほどたって起業のきっかけとなったのだから、人生何があるかわかりません。

 

その話は後ほど・・・。

シンド・フジができるまで7 結婚編

よくあるドラマのワンシーンだと思いました。

 

成人式を終えたばかりの19歳はトイレの中で、くっきりと縦の赤いラインが入った妊娠検査薬を握りしめ、長い間ただただ呆然と立っていました。

 

「妊娠している・・・」

 

結婚するだの母になるだの、覚悟はおろか夢でも考えた事すらない年頃で、何よりも今は小さい頃からの夢がようやく叶う一歩手前です。

今でこそママモデルやママタレントは当たり前の世の中ですが、当時は結婚、出産はおろか、恋愛も公に出来ない時代でした。

 

私は目の前の現実があまりにも想定外だったため、まるでドラマでも観てるかのような、他人事のような気がしました。

 

そして悩んだ末、モデルを辞めて母になる決意をし、事務所に報告しに行きました。

ところが、事務所の女社長は私の話を聞いて一言、

 

「あ、そう。産んでもできるよ。」と軽く言いました。

 

あまりにもアッサリと、また思いがけない言葉に驚きました。

 

後で知ったのですが、彼女自身も若い頃はパリコレでも活躍したモデルでしたが、若くにご結婚され二児の子育てまっただ中だったのです。

だからこそ出た言葉だったのでしょう。

そうでなかったら、なりたい人なんていくらでもいるモデル界で、スタートから子持ちなんて面倒で相手にされなかったでしょう。

 

そんな彼女の言葉にも後押しされ、

2000年春、ハワイの丘の上の小さなチャペルで、私は永遠の愛を誓いました。

 

婚約指輪もドレスも新居も全部、義親が用意してくれたお子ちゃま夫婦の誕生です。

私はただ従うだけ、夢も希望もありません。遠慮して一番安いものを適当にぶだけ、妊婦なのに自暴自棄になっていました。

 

そして秋、10時間の陣痛に耐え、男の子を出産しました。

 

小さな手、小さな足、でも痛いほど強くおっぱいを吸う小さな口。私は生まれてきたわが子をしげしげ眺め、「お腹の中でこんなすごいものを形成してたのか!」と生命の神秘に驚きました。指先にしっかりと爪までついてるのです。

そして、「なんて可愛いの!!」これまで見たどんなものよりも愛しい。心の底から初めての感情が沸き起こりました。

その瞬間、私は身も心も母になりました。

 

慣れない育児と家事は大変でしたが、明るく温かい家庭を築きたいと思い、日々失敗も繰り返しながらも奮闘しました。

 

そして息子が7カ月になると、改めてモデル事務所の門を叩きました。

覚悟はしていましたが、やはり子持ちでモデルをするのは想像以上に厳しいものでした。

 

事務所の方針で子供の事は一切隠して仕事をしました。

ショーの最中に保育園から「子供が熱を出したので、すぐ迎えに来てください」と電話がかかってきても、私がすっ飛んで迎えに行きたいけどそういう訳にもいかず、またそれを誰にも相談する事もできず、ひとりであたふたする事も多々ありました。

仕事が終われば一目散に帰り、家事に育児です。

モデル同士や仕事関係の方とのお茶や食事などには一切付き合えず、仲間からは「あの子は愛想が悪い」とか「かわいそう」だと言われました。

一度だけ、東京のカメラマンに息子がいると打ち明けた事があります。

その人はそれを聞いて一言、

「それを言って得する事(仕事の上では)ひとつもないね」

…そんな時代でした。

 

 

私自身も、頭の中にも「子供を犠牲に自分の好きな事をしている」という罪悪感が常について回りました。

味方であってほしかった夫や義親からのプレッシャーも相当でした。

私は次第に仕事が入ると嬉しさよりも、子供の預け先やフォローなどの不安や心配の方が大きくなり、仕事に集中することができなくなりました。

そんな気持ちだからオーディションにも落ちてばかり、仕事もなく落ち込みました。

子供と一緒にいて安心させてあげたいという思いと、仕事で結果を出したいという焦りとで板挟みの日々が続きました。

 

しかしどんなに辛くても、私は夢をあきらめませんでした。

何故って?モデルという仕事が、好きで好きでたまらなかったから。ただそれだけ。好きな気持ちは抑えられませんでした。

だから私は必死に周りの認めてもらえるよう、家事も育児も文句をつけられないよう完璧を目指しました。

モデルとしてもハンデの分、他のモデルが遊んでいる間に、何倍も努力しました。

 

そしていつしか少しずつモデルとしてのステップを上がり、ママとしても友達から相談を受けるほどアイディアやテクニックを身につけ、すっかり肝っ玉母ちゃんになりました。

 

 

(何よりもこの子がいるから頑張れました)

 

 

 

シンド・フジができるまで6 短大生編

高校を卒業すると、私はついに田舎を脱出し、大阪へと出ていきました。

大阪成蹊女子短期大学・英文コミュニケーション学科に進学しました。

 

モデルになりたいのに進学?

これには理由があります。

 

高校時代には、いくつかオーディションへ応募したのですが、どれも全滅でした。

しかしある日電話をたまたま私がとった時、「今日のリハーサル来られてませんでしたけど、どうかされましたか?」と言われました。

その時すべてを悟りました、母が全て捨てたり隠していたのです。きっと不合格通知ばかりだったとは思いますが、中には合格もあったかもしれない。

華やかな世界への偏見、それが母の場合、さらに良からぬ妄想が膨らんで、何が何でも娘にはそんな世界へ入れまいと必死だったのかと思います。

そんな母に私は反発しました。しかし末っ子のしたたかさで、衝突をさけて進学するという姑息な手段を取りました。

 

卒業式が終わると、すぐに荷物をまとめて引っ越しです。

 

幼い頃からずっと一緒で、慰めの存在だった愛犬メグがその頃老衰化が激しかったのが唯一の心残りでしたが、そんな事も引っ越して一日もするとすっかり忘れてしまいました。

私は恥ずかしながら18歳にして初めて、地下鉄や、吉野家の牛丼、じゃんカラやTSUTAYAを知りました。そして飲み会やクラブも、何もかもが初めてで興奮しました。

だけど私は外で遊ぶより、自分の小さなマンションの一室で過ごす時間が一番好きでした。

たった7帖のワンルーム。そこには初めて手に入れた、誰からも干渉されない、本当の自由。自分だけの自由な世界が詰まっていました。

 

しかし2年間なんてあっという間です。

 

私はみんなが就活するなかで、ひとりモデル事務所を捜し歩きました。

今のようにネットで簡単に検索できません。

怪しいグラビアモデル事務所に入りかけたり、やたらレッスン代の高い事務所に入りかけたりと、大阪でモデル事務所を探すのは案外苦労しました。

ようやくイメージ通りのモデル事務所にたどり着き、合格し、レッスンを受け、

短大卒業と同時にモデルデビューが決まりました。

 

すべてが順調に思えました。すべてが・・・

 

 

 

(メグは私が都会で浮かれているうちに、ひっそりと息を引き取りました。

死に目に帰ってあげられなくて、ごめんね。)

 

 

 

シンド・フジができるまで5 高校生編

自然にもまれ、すっかり田舎の住人になった私も年頃になり、隣の郡の高校に進学しました。1学年12クラスもある大きな高校です。

制服のスカートはひざ上20cmの超ミニ。当時流行っていた60cmもあるスーパー・ルーズソックスを、一番足が細く見える位置にだぶらせてソックタッチで止めることに神経を注ぎ、ヴィヴィアンウエストウッドのハンカチにしっかりとアイロンを当てていました。

通学路はさらに遠く、駅までの道のりは自転車で30分、電車で40分、そこから徒歩15分かけて通いました。自転車を必死で漕げば、駅に着くころには靴下はすっかりずり落ちていました。

小学生の頃のいじめっ子たちは逆に地味で目立たない存在になっていました。

友達も一気に増えて、カラオケへ行っては安室奈美恵にglob、華原朋美などの小室哲哉ソングを熱唱し、プリクラで変顔写真を撮ったりと、定番の高校生活を送るようになりました。

 

そんなある昼休み、上級生に呼び出され、告白をされました。

何の心構えもなかったので非常にびっくりしましたが、その日の放課後、もう一人の上級生からも告白をされ、さらにびっくりしました。

その上級生2人は友達同士だったので、これは何かのドッキリだと思いました。

どちらも断るつもりで姉に相談したら、そのうちの一人がとても堂本光一に似ていて、その頃姉は堂本光一が好きだったので「もったいない!」と言われて付き合うことに。

しかし自分はどうも姉とは好みが違うと気が付いた私、2週間ほどでお別れしました。愛とは何かよくわからなかったのです、反省。

 

次に付き合ったのは同級生でサッカー部のH君。高校2年の秋でした。

1年の時は隣のクラスだったH君は、入学式で私に一目ぼれしてくださったそうです。そして翌日私の悪口を言った男子を殴って一週間停学になったそう。

そのエピソードを聞いた私はいたく感動し、好きになりました。

休み時間におしゃべりしたり、部活が終わるのを待って一緒に帰ったり、当時流行ってたバーバリーのマフラーをお揃いで巻いたり、誕生日には巨大なティディベアをもらったり…他愛のないことが幸せでした。

半年ほどで喧嘩して別れてしまったけど、これが私の青春の恋の思い出です。

(のちの同窓会で「まりちゃんがH君と付き合ってたのか不思議でたまらなかったわ。何か弱みでも掴まれてたの?」といわれる後日談付き。 H君はブサ…決してイケメンではなかったのです笑)

 

 

しかしその頃、私は恋よりも夢中になっているものがありました。

それはアルバイトです。

楽しい高校生活を送りながらも、「こんな田舎から抜け出したい」という気持ちは常にありました。高校を卒業したら都会へ出よう、その為にはお金を貯めようと考えました。

ホテルの配膳にアパレル店員、フードコートなど色んなバイトを経験しましたが、そのうち目的よりも一生懸命労働してお金がもらえる、その行為自体が楽しくてのめり込みました。接客業が性に合っていたのかもしれません。

 

それから私が都会に出たいもう一つの理由は、モデルになりたいということでした。

私は小学低学年からずっと、6歳上の姉が読むファッション誌に夢中でした。雑誌の隅々まで一字一句逃さぬ勢いで読んでいた私は、ファッションに目覚め、そしてモデルに憧れを抱くようになりました。

しかし モデルになりたいなんて大それた夢は、口にするのも、願う事すらも許されない気がして、ずっと心に封印していました。

ところが中学2年の頃、(何の授業だったかは覚えていませんが) 授業中に教師が「八頭身が一番バランスが良くて美人だ」といった話をしていました。例に挙げると観月ありさとかねって。

それから先生はおもむろに私を指さして、「うちの学校ではあなたくらいよ」と言ったのです。

一斉に注がれる視線に顔が一気に赤くなり、身を縮めましたが、心の中では小さくガッツポーズを取りました。

私には先生の何気ない一言が、こんな私にだって夢を見てもいいという許可に思えて、その瞬間私はモデルになりたいという気持ちが一気に溢れ出ました。

 

そんな目標を掲げたアルバイト、やればやるだけ結果が出て、学校では学べない社会経験が自信にも繋がりました。

 

夢は、人に希望を与え、強く成長させるのです。

 

 

シンド・フジができるまで4 中学生編

中学校に上がると、いじめは少しマシになりました。

それは、中学校が隣の村との合併だったからです。

半分はもともと同じ小学校出身、半分はこれまでの私の家庭環境やいじめを知らない隣村小学校出身の生徒で成り立っていたので、単純にいじめる子は半分になりました。

そんな中学校は小学校よりさらに遠く、スクールバスで通いました。

バス停まで自転車で行くことが許されたので、体力的には楽になりましたが、私は毎朝ギリギリに出るものだから、琵琶湖の対岸からぐるりとバスがバス停へ到着するのを、目で追いながらペダルを必死で漕いでいました。
それにしても毎朝夕見る琵琶湖は、いつも違う顔をしていました。

春は穏やかに、夏ははじけて、秋は淋しく、冬は厳か。

都会から来た少女は、自然が創り出す四季折々の湖に目を奪われては、しばし立ち止まっては、バスに乗り遅れたものです。

家は相変わらずでしたが、中学では美術部に入り、勉強は中の下、少数の友達もでき、望んでいた「目立たない普通の女の子」になれていたのではないかと思います。

そして、そんな私をずっと支えてくれたのは、「本」でした。

「くまのパディントン」や「おちゃめなふたご」「 赤 毛 の ア ン」 や「 風 と 共 に 去 り ぬ」 など、長く続くシリーズものが大好きでした。

シリーズが最終章に近づくと終わってしまうのが悲しくて、わざと読むのを止めたり、違う本も読み始め、次に夢中になれる本を確保してから読んだりしました。

芥川龍之介や 太宰治、三浦綾子に、トルストイ やドストエフスキー…中学生にしては渋い読み物は、父の書庫から拝借して読みました。

名作といわれる作品の数々を、感受性豊かな思春期に沢山読めた事が、大人になって 私の財産となったと思います。

とくに成功者と呼ばれ華やかに見える人物にも、幼少の頃や下積み時代には大変な苦労があったという内容の本には、おおいに勇気づけられました。

「この辛い日々も自分がいつか成功した暁には、きっと誇りに思える日が来る」などと生意気に思ったりもしました。

 

そうでも思わなきゃ…

 

私は大人になってからも多くの辛い事に遭遇しましたが、この小中学校の頃が一番辛かったと今でも思います。

それは人は悲しい出来事があるとそれを覚え、学び、成長していくものであり、経験を積めばそれだけ強くなれます。

 

しかし生まれて数年しかたっていない子供には、そんな免疫などあるはずもなく、

真っ白で無抵抗な心には、ズカズカとナイフはよく刺さるのでした。

 

 

 

湖北の冬は、寒くて、厳 し い。

 

どこまでも降り積もる雪の中 、借りた本をぎゅっと胸に抱きしめ、黙々と独り歩いたあの道を、 私は一生忘れない。

 

(結婚を機に本は全部処分してしまったのですが、この2作品だけはどうしても捨てられませんでした。存在自体が心の支えでした。今でも時々ページをめくります。)

 

 

 

 

 

シンド・フジができるまで3 小学高学年編

「躁うつ病」

「統合失調症」

恐らく母はこの二つの病を患っていたのだろう。

随分大人になってからそう推測しました。

 

ネットもない、今のように精神の病についての情報や理解がない時代に、

母親もそして父親も苦しんでいたのだと思います。

 

私は学校から帰ると、まず玄関を開ける前に一呼吸整え、覚悟します。

「今日の母はどうだろうか」

 

調子のいい日はとても優しくて明るくて、美味しい料理をたくさん作ってくれます。ああ、幸せ。

しかし調子の悪い日は「サタンよ去れ!!」などと大声で叫び、私には見えない何かと戦っています。その時はご飯など作ってくれません、何日も部屋に閉じこもって出てこないこともしょっちゅうでした。私の事など目に入らない様子でした。

この天国と地獄の繰り返しのスパンが1日だったり2ヶ月だったり、全く読めないので、毎日ドキドキしていました。

授業中も「たったこの今、お母さんが家で自殺していたらどうしよう」という不安に駆られ、一刻も早く家に帰りたくて、ソワソワと窓の外ばかり見ていました。

 

ある日父は母を精神科医へ連れて行きました。

しかし病気だと認めない母は抵抗する→薬を拒絶→父が無理やり飲ませる→薬を毒だと言い出す→父が母を精神病棟へ閉じ込めよう企んでいると騒ぎ出す→父が激怒して暴れる→母がヒステリックに叫ぶ…

何度となくそんな大嵐が来ました。そんな時はひたすらベットの中で耳をふさぎ、ただ耐えるしかありません。あれが欲しいだとか、お腹が空いただとか、子供らしい欲求を口にするのも憚れました。

 

大阪でエリートサラリーマンだった父は、田舎の工場勤めになり、画家の夢も叶わず母の病気に振り回される日々、相当ストレスがあったと思います。

父はやがて、躾と称して私たちに手を挙げることが多くなりました。

その当時は子供が悪い事をすれば手を挙げられるというのは、普通だったかもしれません。

しかし子供ながらにもこれは理不尽だと思わざるを得ない状況も多々ありました。

ある日、ぶたれた頬を冷やすすべも知らずにさすっていた私に、母は「ごめんね、お父さんはね小さい時に父親を亡くして、父親を知らないのよ。愛し方がわからいだけだから許してあげてね」と涙ながらに言いました。

今なら「えッ!あなたがそれ言いますのん?!」って軽く母親にツッコミ入れれるかもしれません。

しかし私はその言葉で、すべてを受け入れました。

 

学校ではいじめられ、家では怯え、

 

 

さ み し か っ た 。

 

 

赤い実にくちびる染めて

空を見上げる

これ以上辛い日が来ませんようにと

飛び石踏んだ

からたち野道 花ふく小道

泣いたらだめよと虫の音小唄

からたち野道 はるかな小道

あのひとのもとへと続く道

        THE BOOM「からたち野道」

この歌はこの頃よりもう少し大きくなった中学生の頃によく聴いていた曲です。私の心境に寄り添い支えになってくれたと、今も聴くと涙が溢れます。

 

小学5年、林間学校にて。

 

 

 

シンド・フジができるまで2 幼少期~小学低学年編

前回、箕面に住んでいたころはごく普通の家庭だったと書きましたが、

私が幼かったからわからなかっただけで、大人になって姉に聞くところによると、結構大変だったようです。

まず父親が画家になると言って会社を辞めたそうです。

個展など開いていましたが、画家として成功するには道は険しい。母の収入だけでは家のローンに子供3人養うには足りず、トラック運転手などアルバイトをしていたようです。

母は美人で聡明、PTAの役員や障害者施設でボランティアなどをしたりと大変社交的でしたが、その一方で何か精神的に追い詰められていたのでしょうか、新興宗教にハマっていました。

姉と兄は有名私立幼稚園へ通い、家でも厳しく躾けられたそうです。

(私だけは近所の小さな教会幼稚園に入れられ、野放しで育てられましたw)

それでも毎晩食後はみんなで犬散歩に出かけたり、週末は外食や銭湯へと、家族団らんの時間も多く、楽しい思い出がいっぱいでした。

 

そんな一家はある夏休み、信州へキャンプに出掛けました。

信州でテントを立てて一晩過ごすと、思いのほか寒い!という事で予定を変更。

南下して滋賀県の琵琶湖へ行くことになりました。

湖北の湖水浴場で2,3泊したように記憶しています。

私たちが楽しく琵琶湖で泳いでいる間、父は湖水浴場のおじいさん(経営者)と何やら話し込んでいる様子でしたが・・・

 

その年の冬、私たち一家は箕面の家を売り、滋賀県・伊香郡西浅井町(現在は近隣6町と合併し長浜市となる)に移り住みました。

私は小学1年、兄は3年、姉は6年生でした。あの時信州が寒くなければ、縁もゆかりもないこの村に越すことはなかったでしょう。

200坪の土地に建てた新居は、トイレは汲み取り式、お風呂は薪で焚く、目の前琵琶湖、裏は山。何よりも集落より1キロも離れた場所に一軒だけという、「大草原の小さな家」を彷彿とさせるザ・田舎っぷりです。

小学校は歩いて50分もかかりました。豪雪地帯だったので、冬はその倍の時間がかかりました。

都会からきた転校生は、はじめは人気者でした。みんな優しく声をかけてくれました。

ところがいつの頃からか、いじめられるようになりました。

 

(現在愛媛県に住む父親が、つい最近得意げに「子供のいじめってのはなぁ、まずは親から始まるんだ。親がどこか変わっていて、それを親同士が話しているのを子供が聞いて、今度は子供同士であいつの親はおかしいって風に広がるんだ」と言っていました。

・・・お父さん、私それ、身をもって知ってる。思わず苦笑いしたものです。)

 

小さな集落で、母はキリスト教の普及活動を始めました。

学校の帰り道に母が教会の人たちと聖書を配っているのを見た時は、穴があったら入りたいと心底思いました。

集団登校で一緒だったAちゃんは、みんなの前で「私のお母さんがまりこちゃんのお母さんはおかしいから、一緒に遊んじゃダメって言われた」と言い放ちました。

 

私は“クリスチャンはいつの時代も迫害される”を幼くして実感しました。

マタイによる福音書第5章11-12節にこう記されてあります。

「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」

教会幼稚園を卒園し、滋賀に引っ越してからも毎週日曜日は福井県の教会まで連れていかれていた私は、その頃自然と聖書の言葉が浸透していたと思います。

それでも、どうしてもその状況を喜んだり、幸いだと思う事は出来ませんでした。

 

母を恥じ、自分を恥じました。

神様を信じるどころか、恨みました。

 

「今日一日どうか目立ちませんように」

毎日そう願って、何とか一日をやり過ごしていたと覚えています。

 

ところが、この後、学校以上に家が辛くなるのです。

(農道を通った帰り道、自然の美しさには幾分心が癒されました)

続く

シンド・フジができるまで1 誕生編

温活ショップ・SHINDO FUJIをいつもご愛顧いただきありがとうございます。

おかげさまでもうすぐ創立から2年になります。

 

ここで少し、私がこの会社を立ち上げた経緯をお話したいと思います。

私が温活と出会ったのは11年前、病気をしたのがきっかけでした。

なのでそこからお話をしようかと思いましたが、

起業して度々感じたのは、温活をライフスタイルに取り入れるそれ以前の生活があったからそこに至り、私がこれまで生きてきた道すべてがここに繋がっていたのだという事です。

例えば温活には食生活がとても重要なポイントになりますが、私の食生活のベースを作ったのは子供の頃の環境です。

極端に言えば、今私がモデルをしたり会社を作ったりしているのは、生まれたとき時から、いや親の時代から(もっと言えば先祖の代からかも)影響しているのではないかと思います。

 

前書きが長くなりましたが、

そういうわけで会社を作った経緯を、長くなりそうですが、生まれた時からお話ししようと思います。

ご興味のない方は、どうぞ飛ばしてくださいね。

 

 

1980年2月18日、大阪・庄内で私は生まれました。

母親は当時ピアノの先生でした。

町のピアノ教室の先生ではなく、音大受験生を専門に教える、かなりスパルタな教師だったと聞きます。

私を産む2時間前までレッスンをしていたそうです。

おかげで私はクラシックを勉強したことはありませんが、耳が憶え、身体に染み付いています。

 

それから出産3週間後、箕面へ引っ越しをしました。

父親は当時三井物産に勤め、6歳上の姉と2歳上の兄、雑種犬が一匹、

一見ごく普通の家庭でした。

 

ひとつだけ違っていたのは、母親が少しおかしいと子供ながら感じた点です。

 

その頃の忘れられないエピソードがあります。

母はある日、私たち兄弟3人を正座させ、神妙な面持ちでこう言いました。

「あなたたちよく聞きなさい、今日この世が終わります」

ええ?どういう事?今日私死んじゃうの?

4,5歳だった私は心の中でパニックです。

そして母はこう続けました。

「でも安心して、この世が滅びる前に神様が一瞬で救ってくださるから、覚悟だけしておきなさい」

兄弟三人は相談するでもなく、ただただ黙って解散しました。

私は5歳にして死を間近に感じ、途方に暮れ、泣きじゃくるしかできませんでした。

ところが次の日は普通にやってきました。

母親は何のフォローもなし。

そんな母に聞く勇気もなく、とりあえず生き延びたことに胸をなでおろしました。

 

 

現在母は他界していますが、時々夢に出てきます。

大抵の夢は、母が生き返り普通の顔して私の前に現れるのです。

そんな事はありえないのですが、私は目が覚めると、夢だった事に逆に驚きます。

あの母だったら現実に起こりうると、信じさせてしまうほどの強烈な人だったのです。

 

箕面での生活は、多少母親が変で、父親との喧嘩が時々警察を呼ぶレベルだったくらいで、まだまだ幸せだったと思います。

そんな暮らしが小学1年から激変します。

 

 

(時代を感じるこの写真・・・丈夫で育てやすい子でした)

続く