そもそも冷えとはなんだ?

 

皆さん口々に「冷え性なの~」「冷えを治したい~」

て言うけれど、

では「冷え」とはどんなものですか?

 

セミナーなどでそう問うと、
とたんに「そう言われればなんだろう。。。」
と答えに詰まる方ばかりです。

私もかつてはそうでした。

冷えが何かと考える前に、巷に溢れてる温活グッズに先に目が行き、
それを使うことによって、なんだか少し改善された気になったりしていました。

 

でもね、

 

根本的にどうして冷えが起こるか知らなければ、
治すすべだってわからないですよね。

 

正しく知る事が温活の第一歩です!

 

では、
あらためて、冷えとはなんでしょう?

 

それは、

「低体温」 と「血液循環不全」 です。

この状態が慢性的に続くのが 「冷え性」です。

 

低体温とは、
35℃~36℃、あるいはそれ以下の温度のことで、

血の巡りが悪くなり、新陳代謝が鈍くなり、酵素活性や免疫活性が悪くなります。

35℃前後だとガン細胞などの異常細胞が増殖しやすい。
という状態のことで、

 

血液循環不全とは、
私たちの体内では血液が常に巡っていて、酸素や栄養分を全身に配っています。
それらの栄養により、身体の各部位でたんぱく質を合成し、分解、代謝をし、
同時に熱も生産し、やがて不要になった老廃物も血液が運び出すのです。

そのシステムが、寒さ等の原因により血の巡りが悪くなって、機能ダウンする。

そうなると酸素も栄養も届きにくくなり、細胞は活性を失い、熱を生み出せなくて体温が低下、

老廃物が運び出せなくなり、血管は詰まりやすくなり、さらなる血行不良を引き起こす・・・

 

これが「冷え」の正体なんです。
けっこう怖いですよね。

 

「冷えは万病の元」と言いますが、

はこれらの冷えが続けば身体のちょっとした不調から不妊や癌といった重篤な病にまで発展してしまうのです。
本当に怖いです。ただのことわざじゃないんですよ。

 

でも、

 

では、その逆で 「冷え」 を治すとどうでしょう?

血の巡りが良くなり、細胞が活性化され、栄養酸素ともに身体の隅々にまで行き渡り・・・

 

それはもう、健康そのもの、美肌だって、艶髪だって、ダイエット効果も出やすい

スペシャルな身体になりますよ!!!

長くなりましたが、

正しい冷えの知識と対処法で、冷えは治せます。
そして同時に健やかな身体と精神、美まで手に入ります。

だから、温活はライフワークとして、または美容法として
取り入れていきましょうねと言いたかったのです。
流行りや噂に踊らされず、
正しい温活で愛されボディーをめざしましょう♡

 

ちなみに身体が活性化されて一番ベストな体温はというと、37℃前後です。

そういう私の今朝の体温は・・・

なんと37℃超え!!!

大丈夫、しんどくないですよw

かつては冷えから病気に苦しみ温活を始めた私ですが、この10年で風邪一つ引いたことありません。オールウェイズ元気。

 

私で出来たのだから、あなたにも絶対できます。

 

次回から具体的に私の温活習慣を伝授します。

 

 

 

written by Fujibayashi mariko

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シンド・フジができるまで最終章 そして起業へ

誰もが人生の中で一度や二度、このままの自分でいいのかと疑問にぶつかり、

もっと違う道があるのではないかと岐路立たされる事があるでしょう。

35歳の私は、まさしくそんな時でした。

子どもの時からの夢をかなえ、長年モデルとしてやってきたけれど、実は早い段階で自分は外見的にもまた精神的にもモデルは向いていないと気付いていました。

それでもどうしてずっと続けてきたかというと、ただ好きだったからにすぎません。

夢中になって追いかけてきたから、どんなに辛い事があっても、ここまでやってこれました。

しかしモデル以上に好きになれる何かと出会えたなら、迷いなくモデルを捨ててその道に没頭したいと、その「何か」をずっと求めていました。

そして35歳。私は自分の今いる状況に疑問が生まれ、これまで以上に強く「何か」を求めていました。

そんなある日、たまたま「観業展」のチケットをある人からいただきました。

観業展は中小企業等が一堂に集まり、技術力や企画力・商品のPR、販路の開拓等を行う展示商談会です。

正直チケットをもらったときは、ビジネスとか自分には関係のない世界だと思いましたが、これも社会勉強だと思って素直に行ってみました。

会場には数多くの企業でにぎわい、自分は少々場違いだと感じつつ歩き進めると、ふとある一角に、とても美しい色とりどりの靴下が展示されているのを見つけました。

すーっと惹きつけられるように近寄ると、それはシルクだったりオーガニックコットンだったり、かなりこだわって作られた靴下だと素人目にもわかるくらい素敵なものでした。

食い入るように熱心に見ていると、その靴下製造の社長さんが話しかけてくれました。

温活マニアの間では、冷えとり靴下というものが有名ですが、私はこれまで様々な冷えとり靴下を試してきました。その経験からもっとこうだったらいいのになと思う構造とデザインの冷えとり靴下が頭にあったので、社長さんにそのアイディアを話してみました。

すると即座に「出来そうです、早速サンプルを作りましょうか?」と言ってくれました。話をしているとその社長のお人柄の良さが製品そのものに現れていることもすぐにわかりました。

非常に心がざわつきました。しかし私はまだ起業も何も、どこの馬の骨のものかもしれません。「もし作ることになったらお願いします」と名刺だけいただいて帰りました。

 

それから…

 

それから…

 

私はあの美しい靴下が忘れられず、気がつけば会社を起こし、私オリジナルの冷えとり靴下を作り、販売していました。おかげさまでネットショップでは準備段階から注文が入り、すぐに欠品がでるなど、大変な反響をいただきました。

サラッと書きましたが、これまでモデルと主婦しかやってこなかった人間なので、「会社って何?法人って何?」というくらい無知でした。ひとつ物事を進めるたびに失敗し、その失敗を元に前進するという「3歩進んで2歩下がる」のような地道な作業を繰り返してきました。

それはとてつもなく面倒くさくて、辛くて、孤独な戦いでした。

余談ですが、私は会社を起こす1か月前に離婚をしています。起業と離婚は全く関係はありませんが、たまたま時期が重なった為、起業の準備に加え離婚、また息子の受験が一気に重なって、あの頃は1秒すらも気が休まる時がありませんでした。

でも何かにとりつかれたかのように駆け抜けました。

その理由もやはり、好きだったから。これにつきます。しかしモデル以上に好きになったかと言えば、同じくらい好きなものになりました。

私は好きになったらとことん一途です。だからモデルを辞めるのは当然だと思いましたが、当時の事務所社長に引き止められ、今でも続けています。私はその時、人よりも何倍も何十倍も努力すれば、二兎を追うもの両方手にできるという事を知りました。それと同時に、これは矛盾して聞こえるかもしれませんが、失うものや手放さなければいけないものもあると知りました。何を持って何を捨てるか、その決断と勇気が一番大事なのではないかと思います。

 

 

そうして起業から2年たち、現在社長とモデル、そして母親として3足のハイヒール(草鞋)を履いて毎日慌ただしく生きています。

会社はまだまだ軌道に乗ったとは言えず、起業してからの紆余曲折は半端なく、書きたいことが沢山ありますが、それはシンド・フジがもっともっと皆様に認められてから。

温活は私を救ったように、皆様にとっても温活は重要なサポートになると確信しています。温活がもっともっと身近になるように、また温活が美容法のひとつとして確立させるというのが、私の一番の目標です。

そのためにもっともっと精進してまいりたいと思います。

ここまでご愛読ありがとうございました。どうかこれからもシンド・フジをよろしくお願いいたします。

 

 

次回からは毎日できる温活美容法を紹介していきます。

 

 

 

 

 

 

 

シンド・フジができるまで10 起業の芽

自分の病気と母の死を経験し、今日こうして普通に生きているという事が、いかに有り難い事かを身に染みてわかりました。

それからというもの、冷え性関連の本を読み漁り、温活法や温活グッズを片っ端から試していきました。

「冷えは万病の元」と言いますが、

身体は冷えると血行が悪くなり、血行が悪いと身体に必要な栄養素が行き届かず、そこから不調や病が生まれるのです。

先の言葉はことわざくらいにしか思っていませんでしたが、すべての病の根源は冷えなのだと思い知らされました。

そして身体は一昼夜で冷え性や低体温になるのではなく、日々の生活習慣から少しづつ積み重ねでなるのだという事も知りました。               習慣によって生まれた冷えから脱却するのは、その冷える習慣を温める習慣へと変えないといけません。これもまた一日二日で改善されるものではなく時間がかかるものでした。

しかし正しい温活習慣を手に入れていしまえば、病気知らずの毎日です。

私は温活を始めてから2年で完全にメニエール病の症状は出なくなり、3年もすると風邪一つ引かなくなりました。                       そして温活を続けていると思わぬ副産物に出会います。            それ肌や髪まできれいになり、特別なダイエットなどしなくてもスタイルキープが可能になりました。

血行が良くなれば美容面でも効果を発揮する、よく考えれば当たり前ですが、これは嬉しくてますます温活にハマりました。

そうして温活歴が10年近くなったところ、私は35歳、モデルのキャリアも上がって、新人モデルのウオーキングレッスンの仕事もしていました。

モデルという仕事は自分自身が商品なので非常に苛酷です。モデルになりたての若い女の子たちが無理なダイエットをして生理不順になったり、体調を崩したりするのを何度も目の当たりにしました。

そしてその子たちが口々に冷えや低体温で悩んでいると言います。

このままでは健康を害し、将来不妊や重篤な病に繋がりかねないと心配しました。

しかし、私が心配していかに健康が大事で温活しなさいと言ったとて、今は若くて健康だから響きません。

私もそ歳の頃は、健康より美容の事しか考えていませんでしたから気持ちはすごくわかります。

私は数々の温活グッズを試した中で特に気に入ったものが、絹と綿の靴下を交互に4枚重ねて履く「冷えとり靴下」というものがありましたが、当時市販されていたものはナチュラル志向が強いものが多く、ファッション性重視の彼女たちには、薦めてもその良さに共感はしてもらえませんでした。

 

 

温活を健康法と言わず、美容面からアプローチすれば、この子たちにも響くのではないかな?

もっとファッショナブルでかっこいい冷えとり靴下なら履いてくれるのではないかな?

 

そんな思いが、その時ほんの小さく、沸きました。

 

その小さな思いがのちに私の人生を大きく動かすとは、その時は知る由もなくでした。

 

 

シンド・フジができるまで9 母の死

母の様子が変だと気が付いたのは、娘の初節句で実家へ子供たちと姉と一緒に帰省した時でした。

母は元々はふくよかな体型でしたが、その時は少し痩せて見えて、表情が暗かったのです。みんなでひな祭りのお祝いをしましたが、あまり箸をつけず、早々に部屋に引き上げていきました。

私たちは母の気持ちの浮き沈みには慣れっこだったので、準備で疲れたのかな?ぐらいに思い、この時はあまり気に留めませんでした。
しかしその2か月後に母が大阪まで会いに来ましたが、その変わり果てた姿に愕然としました。
見た目が以前の半分くらいに痩せていて、これまで裸眼だったのに、ものすごく分厚いレンズの眼鏡をかけています。まるで別人です。

「お母さん大丈夫?」と心配するも、「何が?全然よ」と返されて、その見た目以外には変化は見られませんでした。
母が帰ってから父に事情を聞くと、やはり春ぐらいから様子がおかしいと。
しかしいくら病院へ行こうと進めても頑なに拒むので父も困っていると言っていました。

それから頻繁に電話で母の様子を聞きましたが、失禁をよくするようになっただとか、食べ物はろくに食べず、冷たい飲み物ばかりやたらと欲しがる、姿勢まで悪くなってきたといった身体的な事から、
口を利かなくなる、出かけるのに準備が3時間くらいかかるから始まり、心配する父に対して口汚く罵りだし、救急車を呼ぶと「こいつ(父)は私に保険金をかけて殺そうとしている!!」と大暴れしたり(救急車は本人に同意がなければ乗せられない)と内面的な事まで、事態はどんどん悪化していきました。

家族で何度も説得しましたが、本人がどんな提案も拒否し、逆に攻撃的になるので、どうしていいのかわからず、何をしても落ち着かない日々でした。
夏休みに帰ると、クーラーをガンガンの部屋でこたつに入って(寝床にしてました)仰向けになっている母の姿は、何か重篤な病にかかっている事は一目瞭然です。あまりにも、あまりにも、もう、もう…。

「お母さん、お願いだから病院へ行って!!」

しかし母は、身体をゆっくりと起こし、氷をたくさん入れた炭酸ジュースをゆっくりと口に含みながら、
「大丈夫よ、お母さんは死なないの」とほほ笑むのでした。

これは私を安心させるために言ってるのではないのです、本気でそう思っている様子でした。あとは魂がどうのこうのということを延々語っていました。

夏の暮れ、父は母を愛媛県の今治へと連れて行きました。
滋賀の家ではスーパーまで30kmほども離れていましたが、今治の母の生家では徒歩圏内にスーパーも病院もあったから、看病するにも何かと便利だからです。

しかしこの頃には、心配する父の事をすっかり拒絶し、近づくと姿が見えなくなるまで罵声を浴びせられると、父はすっかりお手上げでした。

父もかなり憔悴していたので、滋賀に一旦帰らせ、兄弟3人で様子を見に行くことにしました。

「死んでいたらどうしよう」緊張しながら今治の家の鍵を開け、部屋に入ると、
そこには母がミイラのようにガリガリにやせ細り、黄土色の肌、目は窪み落ち、異臭を放ち、滋賀と同じようにクーラーをガンガンに効かせた部屋で寝そべっていました。

医療が発達していない昔は、人は皆このように朽ち果てていったのだろうかと、不謹慎にも思いました。

私たちは背筋が一瞬で凍りましたが、母は息をしていました。そして私たちの訪問を喜んでくれて、話すのもやっとでしたが、どこそこへご飯を食べに行こうなんて言っていました。しかし母はもう立つことも、身体を起こすことも不可能でした。
そしてこっそり救急車を呼びました。私たちは影から見守り、民生委員の方に説得をお願いしましたが、あっさりと乗ってくれました。母も限界だったようで、私たちに向かって「助けを天に求めたら、神様が救急車をよこしてくれたのよ」と自慢していました。
衰退が激しいので、点滴と投薬である程度回復してから検査をすることになりました。相変わらず父が前に出ると激怒するので、その日から兄弟が順番で看病に愛媛まで通う事になりました。

清潔なベッドで点滴しながら眠っている母の姿をみて、私たちは何か月ぶりかの安堵のため息をつきました。

しかし安心したのは束の間で、母は少し回復すると今度は、薬を拒絶し、点滴も外せと言いだしました。
看護師さんたちにも何やらわがままや難しい事を言って困らせ始めました。

先生から精神病棟へ移す相談をされました。精神病棟なら本人が拒否しても治療はできると。このまま点滴をしなければ、また衰退する一方です。

母がそれを絶対に拒否することはわかっていました。しかし検査すらできなければ、母が今どんな状況で余命があと幾らかもわかりません。

私たちは悩みに悩んで、望みがあるならと病棟を移ることに同意をしました。

精神科病棟へ移る時は必ず家族がついていなければいけない規則だそうです。
その日は姉が看病で、私は大阪にいました。

姉によると母は、もうすぐ姉の誕生日ということで、「〇○ホテルへ行ってお祝いしよう」などと言って相変わらず意識はしっかりしていたそうです。

そんな中、先生と看護師さんが病室に入ってきて、これまた規則ですが、本人にこれから精神病棟へ移りますよとはっきりと説明をしました。

母はやはり怒り、首を横に振りました。
そしてどこにそんな余力があったのか、激しく暴れ喚き散らして抵抗する母は3人がかりで押さえられ、手足を鎖でベッドに繋がれて、ベッドごと精神病棟へと運ばれていったそうです。

姉は電話口でそんな様子を涙声で話し、母は私が精神病棟へ送りやったと恨んでるだろうなと言いました。
私は姉にそんな役目をさせてしまったことを、心からすまなく思いました。
精神病棟へ移って2日後、母は静かに息を引き取りました。

結局検査は出来なかったので「衰弱死」とされました。胸から脇にかけて分泌液が出ていたので、恐らく乳がんを患って、それが全身に転移しただろうと先生は言いました。
新大阪駅のホームで姉と落ち合い、新幹線に飛び乗りましたが、最期には間に合いませんでした。

私は新幹線が走り出すと、つい糸が切れたかのように大声をあげて泣いてしまいました。
これまでは母の前でも子供たちの前でも決して涙を見せまいと堪えてきたのに。

よくドラマで余命宣告された人が家族に「死にたくない」と言って泣くシーンを見ますが、きっと大切な人がそんな事を言ったらとても辛いでしょう。

しかしそんな事を言われずに何も逝かれてしまうのは、ある意味それ以上に辛いものでした。
私は母と抱き合って泣きたかった。

一緒に戦ってあげたかった。

母は一体どんな気持ちだったのか、

私たちのしたことはベストだったのか、
わからない。
母は64歳、私は27歳でした。

自分のメニエール病に続いて母の死、健康の事をますます考えさせられました。

今でも新大阪のプラットホームに立って、出発のベルが鳴るのを聞くと、
私はいつもぎゅーっと胸が締め付けられます。

シンド・フジができるまで8 病気編

桜が美しく舞い散る26歳の春、私は二人目の、ふっくらとした可愛い女の子を産みました。

 

長男の頃から時は流れ、芸能人が結婚して子供を産んでも仕事を続ける事が珍しくなくなり、私を取り巻く環境もガラリと変わりました。

「ママでモデルなんてかっこいい」

数年前とは真逆の事を言われて、戸惑い半分、けれど随分と仕事もやりやすくなりました。

桃色の娘の頬を撫でながら思う、「頑張ってよかった」と。

 

 

娘は4ヶ月にもなると夜はまとめて寝てくれるようになったので、育児も少し楽になりました。

そんな頃、病は急にやってきました。

 

夜中にふと目が覚め、見上げた天井が不思議とグニュ~っと歪んで見えました。

見ていると段々気持ち悪くなり、目をギュッとつぶって無理やり眠りました。

そして翌朝、今度は起きた瞬間から激しいめまいに襲われました。

頭をわずかに上げたところで耐えきれず、嘔吐しました。

 

めまいは止まらず、吐き切って生唾しか出ない状態でも吐き続け、歩行も困難に抱えられて病院へ行きました。

そして診断されたのは、

「メニエール病」

初めて耳にした病名でした。

 

メニエール病とは、激しい回転性のめまいと難聴、耳鳴り、耳閉感の四症状が同時に重なる症状を繰り返す内耳の疾患とのこと。

厚生労働省の特定症患に指定されている難病で、原因は不明ですが、ストレスが強く相関しているのだと聞きました。

 

昨日まで、いや、眠りに就くその瞬間まで何の前兆もなくピンピンしていたのに・・・。

私のメニエール病の症状は例えるなら24時間ずっと船酔い(しかもかなり大嵐のなかの航海です)、時々少しマシの車酔いといった感じでした。

そして残念なことにこの病気の根本的な治療法は当時は見つかっていませんでした。

ただ発作時にその症状を緩和させるための薬物による対症療法だけでした。

私にはその薬すらちっとも効きませんでした。

 

その日から家事や育児はおろか、立ち上がることも出来ない完全な寝たきり生活になりました。

田舎に帰り、しばらく療養しました。

吐いてばかりで何も食べれず、見る間に痩せ細っていきました。

当時5歳の息子は、私を気遣ってとても利口に過ごしていました。発作が起きると真っ先に洗面器をもって駆けつけて背中をさすってくれました。

娘はまだ寝てばかりの赤ちゃんだったので、泣けば何とか身体を起こしてオムツ換え、その後自分も横になりながら授乳し、再び寝かせることが出来ました。

寝ても覚めても襲うめまいと吐き気。吐いても吐いても良くならない気分。そして家族のために何もできないどころか迷惑をかけている自分の不甲斐なさ・・・。

 

「死にたい」

何度も思いました。死ねばこの気持ち悪さが止められる。

決して死ぬような病気ではありませんが、気持ちが死に近づく病でした。

 

けれど、ふと横を見るとすやすや眠る娘の顔。こんな状態でも私はおっぱいを与えることによってこの子の命を繋いでいるのです。

私はその瞬間この娘から必要とされていると実感できました。

幼少期ずっと孤独だった私は、大人になってからは頑張って努力することでしか必要とされる価値のない人間だと思ってしまう節がありました。

どんなに辛くても無理に笑って無理に頑張って・・

「愛されたい」

たったひとつの願いのために・・・。

 

それから2ヶ月ほど経つと、車酔い程度まで回復しました。

とはいっても一日に何度かは発作が突然襲うので、家事は休み休み出来ましたが、怖くて外出は出来ませんでした。

ネットで何十年も患っている人も多いと知って、私も一生このままなのかなと落胆する日もありました。

けれどある時ふと思い立ち、またちょうど自宅から3分ほどの距離に鍼灸院があったので、フラフラと尋ねてみたのです。

鍼は血行を促進し、体内の「気」のバランスを整える事で、身体に起きているアンバランスを整えるそうです。

それは運命の導きだったのでしょうか。

鍼に通うごとにほんの少しづつ回復していきました。

調子が良くなったと思って張り切ると、疲れてぶり返し、完治するまでには2年近くかかりましたが、とっても元気になりました。

後遺症で右耳の聴力は少し悪いままです。それは一生治らないと言われています。

 

それでも私は病気を通じて日々健康に過ごせている当たり前が、決して当たり前ではなく、とても有難い事なのだと気が付けたので、よしと思っています。

しかも、この病気から鍼灸院を訪ねた事が、のちに10年ほどたって起業のきっかけとなったのだから、人生何があるかわかりません。

 

その話は後ほど・・・。

シンド・フジができるまで7 結婚編

よくあるドラマのワンシーンだと思いました。

 

成人式を終えたばかりの19歳はトイレの中で、くっきりと縦の赤いラインが入った妊娠検査薬を握りしめ、長い間ただただ呆然と立っていました。

 

「妊娠している・・・」

 

結婚するだの母になるだの、覚悟はおろか夢でも考えた事すらない年頃で、何よりも今は小さい頃からの夢がようやく叶う一歩手前です。

今でこそママモデルやママタレントは当たり前の世の中ですが、当時は結婚、出産はおろか、恋愛も公に出来ない時代でした。

 

私は目の前の現実があまりにも想定外だったため、まるでドラマでも観てるかのような、他人事のような気がしました。

 

そして悩んだ末、モデルを辞めて母になる決意をし、事務所に報告しに行きました。

ところが、事務所の女社長は私の話を聞いて一言、

 

「あ、そう。産んでもできるよ。」と軽く言いました。

 

あまりにもアッサリと、また思いがけない言葉に驚きました。

 

後で知ったのですが、彼女自身も若い頃はパリコレでも活躍したモデルでしたが、若くにご結婚され二児の子育てまっただ中だったのです。

だからこそ出た言葉だったのでしょう。

そうでなかったら、なりたい人なんていくらでもいるモデル界で、スタートから子持ちなんて面倒で相手にされなかったでしょう。

 

そんな彼女の言葉にも後押しされ、

2000年春、ハワイの丘の上の小さなチャペルで、私は永遠の愛を誓いました。

 

婚約指輪もドレスも新居も全部、義親が用意してくれたお子ちゃま夫婦の誕生です。

私はただ従うだけ、夢も希望もありません。遠慮して一番安いものを適当にぶだけ、妊婦なのに自暴自棄になっていました。

 

そして秋、10時間の陣痛に耐え、男の子を出産しました。

 

小さな手、小さな足、でも痛いほど強くおっぱいを吸う小さな口。私は生まれてきたわが子をしげしげ眺め、「お腹の中でこんなすごいものを形成してたのか!」と生命の神秘に驚きました。指先にしっかりと爪までついてるのです。

そして、「なんて可愛いの!!」これまで見たどんなものよりも愛しい。心の底から初めての感情が沸き起こりました。

その瞬間、私は身も心も母になりました。

 

慣れない育児と家事は大変でしたが、明るく温かい家庭を築きたいと思い、日々失敗も繰り返しながらも奮闘しました。

 

そして息子が7カ月になると、改めてモデル事務所の門を叩きました。

覚悟はしていましたが、やはり子持ちでモデルをするのは想像以上に厳しいものでした。

 

事務所の方針で子供の事は一切隠して仕事をしました。

ショーの最中に保育園から「子供が熱を出したので、すぐ迎えに来てください」と電話がかかってきても、私がすっ飛んで迎えに行きたいけどそういう訳にもいかず、またそれを誰にも相談する事もできず、ひとりであたふたする事も多々ありました。

仕事が終われば一目散に帰り、家事に育児です。

モデル同士や仕事関係の方とのお茶や食事などには一切付き合えず、仲間からは「あの子は愛想が悪い」とか「かわいそう」だと言われました。

一度だけ、東京のカメラマンに息子がいると打ち明けた事があります。

その人はそれを聞いて一言、

「それを言って得する事(仕事の上では)ひとつもないね」

…そんな時代でした。

 

 

私自身も、頭の中にも「子供を犠牲に自分の好きな事をしている」という罪悪感が常について回りました。

味方であってほしかった夫や義親からのプレッシャーも相当でした。

私は次第に仕事が入ると嬉しさよりも、子供の預け先やフォローなどの不安や心配の方が大きくなり、仕事に集中することができなくなりました。

そんな気持ちだからオーディションにも落ちてばかり、仕事もなく落ち込みました。

子供と一緒にいて安心させてあげたいという思いと、仕事で結果を出したいという焦りとで板挟みの日々が続きました。

 

しかしどんなに辛くても、私は夢をあきらめませんでした。

何故って?モデルという仕事が、好きで好きでたまらなかったから。ただそれだけ。好きな気持ちは抑えられませんでした。

だから私は必死に周りの認めてもらえるよう、家事も育児も文句をつけられないよう完璧を目指しました。

モデルとしてもハンデの分、他のモデルが遊んでいる間に、何倍も努力しました。

 

そしていつしか少しずつモデルとしてのステップを上がり、ママとしても友達から相談を受けるほどアイディアやテクニックを身につけ、すっかり肝っ玉母ちゃんになりました。

 

 

(何よりもこの子がいるから頑張れました)

 

 

 

シンド・フジができるまで6 短大生編

高校を卒業すると、私はついに田舎を脱出し、大阪へと出ていきました。

大阪成蹊女子短期大学・英文コミュニケーション学科に進学しました。

 

モデルになりたいのに進学?

これには理由があります。

 

高校時代には、いくつかオーディションへ応募したのですが、どれも全滅でした。

しかしある日電話をたまたま私がとった時、「今日のリハーサル来られてませんでしたけど、どうかされましたか?」と言われました。

その時すべてを悟りました、母が全て捨てたり隠していたのです。きっと不合格通知ばかりだったとは思いますが、中には合格もあったかもしれない。

華やかな世界への偏見、それが母の場合、さらに良からぬ妄想が膨らんで、何が何でも娘にはそんな世界へ入れまいと必死だったのかと思います。

そんな母に私は反発しました。しかし末っ子のしたたかさで、衝突をさけて進学するという姑息な手段を取りました。

 

卒業式が終わると、すぐに荷物をまとめて引っ越しです。

 

幼い頃からずっと一緒で、慰めの存在だった愛犬メグがその頃老衰化が激しかったのが唯一の心残りでしたが、そんな事も引っ越して一日もするとすっかり忘れてしまいました。

私は恥ずかしながら18歳にして初めて、地下鉄や、吉野家の牛丼、じゃんカラやTSUTAYAを知りました。そして飲み会やクラブも、何もかもが初めてで興奮しました。

だけど私は外で遊ぶより、自分の小さなマンションの一室で過ごす時間が一番好きでした。

たった7帖のワンルーム。そこには初めて手に入れた、誰からも干渉されない、本当の自由。自分だけの自由な世界が詰まっていました。

 

しかし2年間なんてあっという間です。

 

私はみんなが就活するなかで、ひとりモデル事務所を捜し歩きました。

今のようにネットで簡単に検索できません。

怪しいグラビアモデル事務所に入りかけたり、やたらレッスン代の高い事務所に入りかけたりと、大阪でモデル事務所を探すのは案外苦労しました。

ようやくイメージ通りのモデル事務所にたどり着き、合格し、レッスンを受け、

短大卒業と同時にモデルデビューが決まりました。

 

すべてが順調に思えました。すべてが・・・

 

 

 

(メグは私が都会で浮かれているうちに、ひっそりと息を引き取りました。

死に目に帰ってあげられなくて、ごめんね。)

 

 

 

シンド・フジができるまで5 高校生編

自然にもまれ、すっかり田舎の住人になった私も年頃になり、隣の郡の高校に進学しました。1学年12クラスもある大きな高校です。

制服のスカートはひざ上20cmの超ミニ。当時流行っていた60cmもあるスーパー・ルーズソックスを、一番足が細く見える位置にだぶらせてソックタッチで止めることに神経を注ぎ、ヴィヴィアンウエストウッドのハンカチにしっかりとアイロンを当てていました。

通学路はさらに遠く、駅までの道のりは自転車で30分、電車で40分、そこから徒歩15分かけて通いました。自転車を必死で漕げば、駅に着くころには靴下はすっかりずり落ちていました。

小学生の頃のいじめっ子たちは逆に地味で目立たない存在になっていました。

友達も一気に増えて、カラオケへ行っては安室奈美恵にglob、華原朋美などの小室哲哉ソングを熱唱し、プリクラで変顔写真を撮ったりと、定番の高校生活を送るようになりました。

 

そんなある昼休み、上級生に呼び出され、告白をされました。

何の心構えもなかったので非常にびっくりしましたが、その日の放課後、もう一人の上級生からも告白をされ、さらにびっくりしました。

その上級生2人は友達同士だったので、これは何かのドッキリだと思いました。

どちらも断るつもりで姉に相談したら、そのうちの一人がとても堂本光一に似ていて、その頃姉は堂本光一が好きだったので「もったいない!」と言われて付き合うことに。

しかし自分はどうも姉とは好みが違うと気が付いた私、2週間ほどでお別れしました。愛とは何かよくわからなかったのです、反省。

 

次に付き合ったのは同級生でサッカー部のH君。高校2年の秋でした。

1年の時は隣のクラスだったH君は、入学式で私に一目ぼれしてくださったそうです。そして翌日私の悪口を言った男子を殴って一週間停学になったそう。

そのエピソードを聞いた私はいたく感動し、好きになりました。

休み時間におしゃべりしたり、部活が終わるのを待って一緒に帰ったり、当時流行ってたバーバリーのマフラーをお揃いで巻いたり、誕生日には巨大なティディベアをもらったり…他愛のないことが幸せでした。

半年ほどで喧嘩して別れてしまったけど、これが私の青春の恋の思い出です。

(のちの同窓会で「まりちゃんがH君と付き合ってたのか不思議でたまらなかったわ。何か弱みでも掴まれてたの?」といわれる後日談付き。 H君はブサ…決してイケメンではなかったのです笑)

 

 

しかしその頃、私は恋よりも夢中になっているものがありました。

それはアルバイトです。

楽しい高校生活を送りながらも、「こんな田舎から抜け出したい」という気持ちは常にありました。高校を卒業したら都会へ出よう、その為にはお金を貯めようと考えました。

ホテルの配膳にアパレル店員、フードコートなど色んなバイトを経験しましたが、そのうち目的よりも一生懸命労働してお金がもらえる、その行為自体が楽しくてのめり込みました。接客業が性に合っていたのかもしれません。

 

それから私が都会に出たいもう一つの理由は、モデルになりたいということでした。

私は小学低学年からずっと、6歳上の姉が読むファッション誌に夢中でした。雑誌の隅々まで一字一句逃さぬ勢いで読んでいた私は、ファッションに目覚め、そしてモデルに憧れを抱くようになりました。

しかし モデルになりたいなんて大それた夢は、口にするのも、願う事すらも許されない気がして、ずっと心に封印していました。

ところが中学2年の頃、(何の授業だったかは覚えていませんが) 授業中に教師が「八頭身が一番バランスが良くて美人だ」といった話をしていました。例に挙げると観月ありさとかねって。

それから先生はおもむろに私を指さして、「うちの学校ではあなたくらいよ」と言ったのです。

一斉に注がれる視線に顔が一気に赤くなり、身を縮めましたが、心の中では小さくガッツポーズを取りました。

私には先生の何気ない一言が、こんな私にだって夢を見てもいいという許可に思えて、その瞬間私はモデルになりたいという気持ちが一気に溢れ出ました。

 

そんな目標を掲げたアルバイト、やればやるだけ結果が出て、学校では学べない社会経験が自信にも繋がりました。

 

夢は、人に希望を与え、強く成長させるのです。

 

 

シンド・フジができるまで4 中学生編

中学校に上がると、いじめは少しマシになりました。

それは、中学校が隣の村との合併だったからです。

半分はもともと同じ小学校出身、半分はこれまでの私の家庭環境やいじめを知らない隣村小学校出身の生徒で成り立っていたので、単純にいじめる子は半分になりました。

そんな中学校は小学校よりさらに遠く、スクールバスで通いました。

バス停まで自転車で行くことが許されたので、体力的には楽になりましたが、私は毎朝ギリギリに出るものだから、琵琶湖の対岸からぐるりとバスがバス停へ到着するのを、目で追いながらペダルを必死で漕いでいました。
それにしても毎朝夕見る琵琶湖は、いつも違う顔をしていました。

春は穏やかに、夏ははじけて、秋は淋しく、冬は厳か。

都会から来た少女は、自然が創り出す四季折々の湖に目を奪われては、しばし立ち止まっては、バスに乗り遅れたものです。

家は相変わらずでしたが、中学では美術部に入り、勉強は中の下、少数の友達もでき、望んでいた「目立たない普通の女の子」になれていたのではないかと思います。

そして、そんな私をずっと支えてくれたのは、「本」でした。

「くまのパディントン」や「おちゃめなふたご」「 赤 毛 の ア ン」 や「 風 と 共 に 去 り ぬ」 など、長く続くシリーズものが大好きでした。

シリーズが最終章に近づくと終わってしまうのが悲しくて、わざと読むのを止めたり、違う本も読み始め、次に夢中になれる本を確保してから読んだりしました。

芥川龍之介や 太宰治、三浦綾子に、トルストイ やドストエフスキー…中学生にしては渋い読み物は、父の書庫から拝借して読みました。

名作といわれる作品の数々を、感受性豊かな思春期に沢山読めた事が、大人になって 私の財産となったと思います。

とくに成功者と呼ばれ華やかに見える人物にも、幼少の頃や下積み時代には大変な苦労があったという内容の本には、おおいに勇気づけられました。

「この辛い日々も自分がいつか成功した暁には、きっと誇りに思える日が来る」などと生意気に思ったりもしました。

 

そうでも思わなきゃ…

 

私は大人になってからも多くの辛い事に遭遇しましたが、この小中学校の頃が一番辛かったと今でも思います。

それは人は悲しい出来事があるとそれを覚え、学び、成長していくものであり、経験を積めばそれだけ強くなれます。

 

しかし生まれて数年しかたっていない子供には、そんな免疫などあるはずもなく、

真っ白で無抵抗な心には、ズカズカとナイフはよく刺さるのでした。

 

 

 

湖北の冬は、寒くて、厳 し い。

 

どこまでも降り積もる雪の中 、借りた本をぎゅっと胸に抱きしめ、黙々と独り歩いたあの道を、 私は一生忘れない。

 

(結婚を機に本は全部処分してしまったのですが、この2作品だけはどうしても捨てられませんでした。存在自体が心の支えでした。今でも時々ページをめくります。)

 

 

 

 

 

西宮阪急の催事出店を無事に終えました

おかげさまで昨日で西宮阪急・1階タオル・リラクシング売り場での催事販売は終了しました。

たくさんのお客様に手に取っていただき、購入してただき誠にありがとうございました。

「次はいつ来るの?」との有り難いお言葉も多数いただきまして、恐縮です。

予定は未定ですが、西宮の皆様のため再度出店したいと切望しております。

その際にはお知らせいたしますので、

何卒よろしくお願いいたします。