シンド・フジができるまで7 結婚編

よくあるドラマのワンシーンだと思いました。

 

成人式を終えたばかりの19歳はトイレの中で、くっきりと縦の赤いラインが入った妊娠検査薬を握りしめ、長い間ただただ呆然と立っていました。

 

「妊娠している・・・」

 

結婚するだの母になるだの、覚悟はおろか夢でも考えた事すらない年頃で、何よりも今は小さい頃からの夢がようやく叶う一歩手前です。

今でこそママモデルやママタレントは当たり前の世の中ですが、当時は結婚、出産はおろか、恋愛も公に出来ない時代でした。

 

私は目の前の現実があまりにも想定外だったため、まるでドラマでも観てるかのような、他人事のような気がしました。

 

そして悩んだ末、モデルを辞めて母になる決意をし、事務所に報告しに行きました。

ところが、事務所の女社長は私の話を聞いて一言、

 

「あ、そう。産んでもできるよ。」と軽く言いました。

 

あまりにもアッサリと、また思いがけない言葉に驚きました。

 

後で知ったのですが、彼女自身も若い頃はパリコレでも活躍したモデルでしたが、若くにご結婚され二児の子育てまっただ中だったのです。

だからこそ出た言葉だったのでしょう。

そうでなかったら、なりたい人なんていくらでもいるモデル界で、スタートから子持ちなんて面倒で相手にされなかったでしょう。

 

そんな彼女の言葉にも後押しされ、

2000年春、ハワイの丘の上の小さなチャペルで、私は永遠の愛を誓いました。

 

婚約指輪もドレスも新居も全部、義親が用意してくれたお子ちゃま夫婦の誕生です。

私はただ従うだけ、夢も希望もありません。遠慮して一番安いものを適当にぶだけ、妊婦なのに自暴自棄になっていました。

 

そして秋、10時間の陣痛に耐え、男の子を出産しました。

 

小さな手、小さな足、でも痛いほど強くおっぱいを吸う小さな口。私は生まれてきたわが子をしげしげ眺め、「お腹の中でこんなすごいものを形成してたのか!」と生命の神秘に驚きました。指先にしっかりと爪までついてるのです。

そして、「なんて可愛いの!!」これまで見たどんなものよりも愛しい。心の底から初めての感情が沸き起こりました。

その瞬間、私は身も心も母になりました。

 

慣れない育児と家事は大変でしたが、明るく温かい家庭を築きたいと思い、日々失敗も繰り返しながらも奮闘しました。

 

そして息子が7カ月になると、改めてモデル事務所の門を叩きました。

覚悟はしていましたが、やはり子持ちでモデルをするのは想像以上に厳しいものでした。

 

事務所の方針で子供の事は一切隠して仕事をしました。

ショーの最中に保育園から「子供が熱を出したので、すぐ迎えに来てください」と電話がかかってきても、私がすっ飛んで迎えに行きたいけどそういう訳にもいかず、またそれを誰にも相談する事もできず、ひとりであたふたする事も多々ありました。

仕事が終われば一目散に帰り、家事に育児です。

モデル同士や仕事関係の方とのお茶や食事などには一切付き合えず、仲間からは「あの子は愛想が悪い」とか「かわいそう」だと言われました。

一度だけ、東京のカメラマンに息子がいると打ち明けた事があります。

その人はそれを聞いて一言、

「それを言って得する事(仕事の上では)ひとつもないね」

…そんな時代でした。

 

 

私自身も、頭の中にも「子供を犠牲に自分の好きな事をしている」という罪悪感が常について回りました。

味方であってほしかった夫や義親からのプレッシャーも相当でした。

私は次第に仕事が入ると嬉しさよりも、子供の預け先やフォローなどの不安や心配の方が大きくなり、仕事に集中することができなくなりました。

そんな気持ちだからオーディションにも落ちてばかり、仕事もなく落ち込みました。

子供と一緒にいて安心させてあげたいという思いと、仕事で結果を出したいという焦りとで板挟みの日々が続きました。

 

しかしどんなに辛くても、私は夢をあきらめませんでした。

何故って?モデルという仕事が、好きで好きでたまらなかったから。ただそれだけ。好きな気持ちは抑えられませんでした。

だから私は必死に周りの認めてもらえるよう、家事も育児も文句をつけられないよう完璧を目指しました。

モデルとしてもハンデの分、他のモデルが遊んでいる間に、何倍も努力しました。

 

そしていつしか少しずつモデルとしてのステップを上がり、ママとしても友達から相談を受けるほどアイディアやテクニックを身につけ、すっかり肝っ玉母ちゃんになりました。

 

 

(何よりもこの子がいるから頑張れました)

 

 

 

シンド・フジができるまで6 短大生編

高校を卒業すると、私はついに田舎を脱出し、大阪へと出ていきました。

大阪成蹊女子短期大学・英文コミュニケーション学科に進学しました。

 

モデルになりたいのに進学?

これには理由があります。

 

高校時代には、いくつかオーディションへ応募したのですが、どれも全滅でした。

しかしある日電話をたまたま私がとった時、「今日のリハーサル来られてませんでしたけど、どうかされましたか?」と言われました。

その時すべてを悟りました、母が全て捨てたり隠していたのです。きっと不合格通知ばかりだったとは思いますが、中には合格もあったかもしれない。

華やかな世界への偏見、それが母の場合、さらに良からぬ妄想が膨らんで、何が何でも娘にはそんな世界へ入れまいと必死だったのかと思います。

そんな母に私は反発しました。しかし末っ子のしたたかさで、衝突をさけて進学するという姑息な手段を取りました。

 

卒業式が終わると、すぐに荷物をまとめて引っ越しです。

 

幼い頃からずっと一緒で、慰めの存在だった愛犬メグがその頃老衰化が激しかったのが唯一の心残りでしたが、そんな事も引っ越して一日もするとすっかり忘れてしまいました。

私は恥ずかしながら18歳にして初めて、地下鉄や、吉野家の牛丼、じゃんカラやTSUTAYAを知りました。そして飲み会やクラブも、何もかもが初めてで興奮しました。

だけど私は外で遊ぶより、自分の小さなマンションの一室で過ごす時間が一番好きでした。

たった7帖のワンルーム。そこには初めて手に入れた、誰からも干渉されない、本当の自由。自分だけの自由な世界が詰まっていました。

 

しかし2年間なんてあっという間です。

 

私はみんなが就活するなかで、ひとりモデル事務所を捜し歩きました。

今のようにネットで簡単に検索できません。

怪しいグラビアモデル事務所に入りかけたり、やたらレッスン代の高い事務所に入りかけたりと、大阪でモデル事務所を探すのは案外苦労しました。

ようやくイメージ通りのモデル事務所にたどり着き、合格し、レッスンを受け、

短大卒業と同時にモデルデビューが決まりました。

 

すべてが順調に思えました。すべてが・・・

 

 

 

(メグは私が都会で浮かれているうちに、ひっそりと息を引き取りました。

死に目に帰ってあげられなくて、ごめんね。)

 

 

 

シンド・フジができるまで5 高校生編

自然にもまれ、すっかり田舎の住人になった私も年頃になり、隣の郡の高校に進学しました。1学年12クラスもある大きな高校です。

制服のスカートはひざ上20cmの超ミニ。当時流行っていた60cmもあるスーパー・ルーズソックスを、一番足が細く見える位置にだぶらせてソックタッチで止めることに神経を注ぎ、ヴィヴィアンウエストウッドのハンカチにしっかりとアイロンを当てていました。

通学路はさらに遠く、駅までの道のりは自転車で30分、電車で40分、そこから徒歩15分かけて通いました。自転車を必死で漕げば、駅に着くころには靴下はすっかりずり落ちていました。

小学生の頃のいじめっ子たちは逆に地味で目立たない存在になっていました。

友達も一気に増えて、カラオケへ行っては安室奈美恵にglob、華原朋美などの小室哲哉ソングを熱唱し、プリクラで変顔写真を撮ったりと、定番の高校生活を送るようになりました。

 

そんなある昼休み、上級生に呼び出され、告白をされました。

何の心構えもなかったので非常にびっくりしましたが、その日の放課後、もう一人の上級生からも告白をされ、さらにびっくりしました。

その上級生2人は友達同士だったので、これは何かのドッキリだと思いました。

どちらも断るつもりで姉に相談したら、そのうちの一人がとても堂本光一に似ていて、その頃姉は堂本光一が好きだったので「もったいない!」と言われて付き合うことに。

しかし自分はどうも姉とは好みが違うと気が付いた私、2週間ほどでお別れしました。愛とは何かよくわからなかったのです、反省。

 

次に付き合ったのは同級生でサッカー部のH君。高校2年の秋でした。

1年の時は隣のクラスだったH君は、入学式で私に一目ぼれしてくださったそうです。そして翌日私の悪口を言った男子を殴って一週間停学になったそう。

そのエピソードを聞いた私はいたく感動し、好きになりました。

休み時間におしゃべりしたり、部活が終わるのを待って一緒に帰ったり、当時流行ってたバーバリーのマフラーをお揃いで巻いたり、誕生日には巨大なティディベアをもらったり…他愛のないことが幸せでした。

半年ほどで喧嘩して別れてしまったけど、これが私の青春の恋の思い出です。

(のちの同窓会で「まりちゃんがH君と付き合ってたのか不思議でたまらなかったわ。何か弱みでも掴まれてたの?」といわれる後日談付き。 H君はブサ…決してイケメンではなかったのです笑)

 

 

しかしその頃、私は恋よりも夢中になっているものがありました。

それはアルバイトです。

楽しい高校生活を送りながらも、「こんな田舎から抜け出したい」という気持ちは常にありました。高校を卒業したら都会へ出よう、その為にはお金を貯めようと考えました。

ホテルの配膳にアパレル店員、フードコートなど色んなバイトを経験しましたが、そのうち目的よりも一生懸命労働してお金がもらえる、その行為自体が楽しくてのめり込みました。接客業が性に合っていたのかもしれません。

 

それから私が都会に出たいもう一つの理由は、モデルになりたいということでした。

私は小学低学年からずっと、6歳上の姉が読むファッション誌に夢中でした。雑誌の隅々まで一字一句逃さぬ勢いで読んでいた私は、ファッションに目覚め、そしてモデルに憧れを抱くようになりました。

しかし モデルになりたいなんて大それた夢は、口にするのも、願う事すらも許されない気がして、ずっと心に封印していました。

ところが中学2年の頃、(何の授業だったかは覚えていませんが) 授業中に教師が「八頭身が一番バランスが良くて美人だ」といった話をしていました。例に挙げると観月ありさとかねって。

それから先生はおもむろに私を指さして、「うちの学校ではあなたくらいよ」と言ったのです。

一斉に注がれる視線に顔が一気に赤くなり、身を縮めましたが、心の中では小さくガッツポーズを取りました。

私には先生の何気ない一言が、こんな私にだって夢を見てもいいという許可に思えて、その瞬間私はモデルになりたいという気持ちが一気に溢れ出ました。

 

そんな目標を掲げたアルバイト、やればやるだけ結果が出て、学校では学べない社会経験が自信にも繋がりました。

 

夢は、人に希望を与え、強く成長させるのです。

 

 

シンド・フジができるまで4 中学生編

中学校に上がると、いじめは少しマシになりました。

それは、中学校が隣の村との合併だったからです。

半分はもともと同じ小学校出身、半分はこれまでの私の家庭環境やいじめを知らない隣村小学校出身の生徒で成り立っていたので、単純にいじめる子は半分になりました。

そんな中学校は小学校よりさらに遠く、スクールバスで通いました。

バス停まで自転車で行くことが許されたので、体力的には楽になりましたが、私は毎朝ギリギリに出るものだから、琵琶湖の対岸からぐるりとバスがバス停へ到着するのを、目で追いながらペダルを必死で漕いでいました。
それにしても毎朝夕見る琵琶湖は、いつも違う顔をしていました。

春は穏やかに、夏ははじけて、秋は淋しく、冬は厳か。

都会から来た少女は、自然が創り出す四季折々の湖に目を奪われては、しばし立ち止まっては、バスに乗り遅れたものです。

家は相変わらずでしたが、中学では美術部に入り、勉強は中の下、少数の友達もでき、望んでいた「目立たない普通の女の子」になれていたのではないかと思います。

そして、そんな私をずっと支えてくれたのは、「本」でした。

「くまのパディントン」や「おちゃめなふたご」「 赤 毛 の ア ン」 や「 風 と 共 に 去 り ぬ」 など、長く続くシリーズものが大好きでした。

シリーズが最終章に近づくと終わってしまうのが悲しくて、わざと読むのを止めたり、違う本も読み始め、次に夢中になれる本を確保してから読んだりしました。

芥川龍之介や 太宰治、三浦綾子に、トルストイ やドストエフスキー…中学生にしては渋い読み物は、父の書庫から拝借して読みました。

名作といわれる作品の数々を、感受性豊かな思春期に沢山読めた事が、大人になって 私の財産となったと思います。

とくに成功者と呼ばれ華やかに見える人物にも、幼少の頃や下積み時代には大変な苦労があったという内容の本には、おおいに勇気づけられました。

「この辛い日々も自分がいつか成功した暁には、きっと誇りに思える日が来る」などと生意気に思ったりもしました。

 

そうでも思わなきゃ…

 

私は大人になってからも多くの辛い事に遭遇しましたが、この小中学校の頃が一番辛かったと今でも思います。

それは人は悲しい出来事があるとそれを覚え、学び、成長していくものであり、経験を積めばそれだけ強くなれます。

 

しかし生まれて数年しかたっていない子供には、そんな免疫などあるはずもなく、

真っ白で無抵抗な心には、ズカズカとナイフはよく刺さるのでした。

 

 

 

湖北の冬は、寒くて、厳 し い。

 

どこまでも降り積もる雪の中 、借りた本をぎゅっと胸に抱きしめ、黙々と独り歩いたあの道を、 私は一生忘れない。

 

(結婚を機に本は全部処分してしまったのですが、この2作品だけはどうしても捨てられませんでした。存在自体が心の支えでした。今でも時々ページをめくります。)

 

 

 

 

 

西宮阪急の催事出店を無事に終えました

おかげさまで昨日で西宮阪急・1階タオル・リラクシング売り場での催事販売は終了しました。

たくさんのお客様に手に取っていただき、購入してただき誠にありがとうございました。

「次はいつ来るの?」との有り難いお言葉も多数いただきまして、恐縮です。

予定は未定ですが、西宮の皆様のため再度出店したいと切望しております。

その際にはお知らせいたしますので、

何卒よろしくお願いいたします。

 

シンド・フジができるまで3 小学高学年編

「躁うつ病」

「統合失調症」

恐らく母はこの二つの病を患っていたのだろう。

随分大人になってからそう推測しました。

 

ネットもない、今のように精神の病についての情報や理解がない時代に、

母親もそして父親も苦しんでいたのだと思います。

 

私は学校から帰ると、まず玄関を開ける前に一呼吸整え、覚悟します。

「今日の母はどうだろうか」

 

調子のいい日はとても優しくて明るくて、美味しい料理をたくさん作ってくれます。ああ、幸せ。

しかし調子の悪い日は「サタンよ去れ!!」などと大声で叫び、私には見えない何かと戦っています。その時はご飯など作ってくれません、何日も部屋に閉じこもって出てこないこともしょっちゅうでした。私の事など目に入らない様子でした。

この天国と地獄の繰り返しのスパンが1日だったり2ヶ月だったり、全く読めないので、毎日ドキドキしていました。

授業中も「たったこの今、お母さんが家で自殺していたらどうしよう」という不安に駆られ、一刻も早く家に帰りたくて、ソワソワと窓の外ばかり見ていました。

 

ある日父は母を精神科医へ連れて行きました。

しかし病気だと認めない母は抵抗する→薬を拒絶→父が無理やり飲ませる→薬を毒だと言い出す→父が母を精神病棟へ閉じ込めよう企んでいると騒ぎ出す→父が激怒して暴れる→母がヒステリックに叫ぶ…

何度となくそんな大嵐が来ました。そんな時はひたすらベットの中で耳をふさぎ、ただ耐えるしかありません。あれが欲しいだとか、お腹が空いただとか、子供らしい欲求を口にするのも憚れました。

 

大阪でエリートサラリーマンだった父は、田舎の工場勤めになり、画家の夢も叶わず母の病気に振り回される日々、相当ストレスがあったと思います。

父はやがて、躾と称して私たちに手を挙げることが多くなりました。

その当時は子供が悪い事をすれば手を挙げられるというのは、普通だったかもしれません。

しかし子供ながらにもこれは理不尽だと思わざるを得ない状況も多々ありました。

ある日、ぶたれた頬を冷やすすべも知らずにさすっていた私に、母は「ごめんね、お父さんはね小さい時に父親を亡くして、父親を知らないのよ。愛し方がわからいだけだから許してあげてね」と涙ながらに言いました。

今なら「えッ!あなたがそれ言いますのん?!」って軽く母親にツッコミ入れれるかもしれません。

しかし私はその言葉で、すべてを受け入れました。

 

学校ではいじめられ、家では怯え、

 

 

さ み し か っ た 。

 

 

赤い実にくちびる染めて

空を見上げる

これ以上辛い日が来ませんようにと

飛び石踏んだ

からたち野道 花ふく小道

泣いたらだめよと虫の音小唄

からたち野道 はるかな小道

あのひとのもとへと続く道

        THE BOOM「からたち野道」

この歌はこの頃よりもう少し大きくなった中学生の頃によく聴いていた曲です。私の心境に寄り添い支えになってくれたと、今も聴くと涙が溢れます。

 

小学5年、林間学校にて。

 

 

 

シンド・フジができるまで2 幼少期~小学低学年編

前回、箕面に住んでいたころはごく普通の家庭だったと書きましたが、

私が幼かったからわからなかっただけで、大人になって姉に聞くところによると、結構大変だったようです。

まず父親が画家になると言って会社を辞めたそうです。

個展など開いていましたが、画家として成功するには道は険しい。母の収入だけでは家のローンに子供3人養うには足りず、トラック運転手などアルバイトをしていたようです。

母は美人で聡明、PTAの役員や障害者施設でボランティアなどをしたりと大変社交的でしたが、その一方で何か精神的に追い詰められていたのでしょうか、新興宗教にハマっていました。

姉と兄は有名私立幼稚園へ通い、家でも厳しく躾けられたそうです。

(私だけは近所の小さな教会幼稚園に入れられ、野放しで育てられましたw)

それでも毎晩食後はみんなで犬散歩に出かけたり、週末は外食や銭湯へと、家族団らんの時間も多く、楽しい思い出がいっぱいでした。

 

そんな一家はある夏休み、信州へキャンプに出掛けました。

信州でテントを立てて一晩過ごすと、思いのほか寒い!という事で予定を変更。

南下して滋賀県の琵琶湖へ行くことになりました。

湖北の湖水浴場で2,3泊したように記憶しています。

私たちが楽しく琵琶湖で泳いでいる間、父は湖水浴場のおじいさん(経営者)と何やら話し込んでいる様子でしたが・・・

 

その年の冬、私たち一家は箕面の家を売り、滋賀県・伊香郡西浅井町(現在は近隣6町と合併し長浜市となる)に移り住みました。

私は小学1年、兄は3年、姉は6年生でした。あの時信州が寒くなければ、縁もゆかりもないこの村に越すことはなかったでしょう。

200坪の土地に建てた新居は、トイレは汲み取り式、お風呂は薪で焚く、目の前琵琶湖、裏は山。何よりも集落より1キロも離れた場所に一軒だけという、「大草原の小さな家」を彷彿とさせるザ・田舎っぷりです。

小学校は歩いて50分もかかりました。豪雪地帯だったので、冬はその倍の時間がかかりました。

都会からきた転校生は、はじめは人気者でした。みんな優しく声をかけてくれました。

ところがいつの頃からか、いじめられるようになりました。

 

(現在愛媛県に住む父親が、つい最近得意げに「子供のいじめってのはなぁ、まずは親から始まるんだ。親がどこか変わっていて、それを親同士が話しているのを子供が聞いて、今度は子供同士であいつの親はおかしいって風に広がるんだ」と言っていました。

・・・お父さん、私それ、身をもって知ってる。思わず苦笑いしたものです。)

 

小さな集落で、母はキリスト教の普及活動を始めました。

学校の帰り道に母が教会の人たちと聖書を配っているのを見た時は、穴があったら入りたいと心底思いました。

集団登校で一緒だったAちゃんは、みんなの前で「私のお母さんがまりこちゃんのお母さんはおかしいから、一緒に遊んじゃダメって言われた」と言い放ちました。

 

私は“クリスチャンはいつの時代も迫害される”を幼くして実感しました。

マタイによる福音書第5章11-12節にこう記されてあります。

「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」

教会幼稚園を卒園し、滋賀に引っ越してからも毎週日曜日は福井県の教会まで連れていかれていた私は、その頃自然と聖書の言葉が浸透していたと思います。

それでも、どうしてもその状況を喜んだり、幸いだと思う事は出来ませんでした。

 

母を恥じ、自分を恥じました。

神様を信じるどころか、恨みました。

 

「今日一日どうか目立ちませんように」

毎日そう願って、何とか一日をやり過ごしていたと覚えています。

 

ところが、この後、学校以上に家が辛くなるのです。

(農道を通った帰り道、自然の美しさには幾分心が癒されました)

続く

シンド・フジができるまで1 誕生編

温活ショップ・SHINDO FUJIをいつもご愛顧いただきありがとうございます。

おかげさまでもうすぐ創立から2年になります。

 

ここで少し、私がこの会社を立ち上げた経緯をお話したいと思います。

私が温活と出会ったのは11年前、病気をしたのがきっかけでした。

なのでそこからお話をしようかと思いましたが、

起業して度々感じたのは、温活をライフスタイルに取り入れるそれ以前の生活があったからそこに至り、私がこれまで生きてきた道すべてがここに繋がっていたのだという事です。

例えば温活には食生活がとても重要なポイントになりますが、私の食生活のベースを作ったのは子供の頃の環境です。

極端に言えば、今私がモデルをしたり会社を作ったりしているのは、生まれたとき時から、いや親の時代から(もっと言えば先祖の代からかも)影響しているのではないかと思います。

 

前書きが長くなりましたが、

そういうわけで会社を作った経緯を、長くなりそうですが、生まれた時からお話ししようと思います。

ご興味のない方は、どうぞ飛ばしてくださいね。

 

 

1980年2月18日、大阪・庄内で私は生まれました。

母親は当時ピアノの先生でした。

町のピアノ教室の先生ではなく、音大受験生を専門に教える、かなりスパルタな教師だったと聞きます。

私を産む2時間前までレッスンをしていたそうです。

おかげで私はクラシックを勉強したことはありませんが、耳が憶え、身体に染み付いています。

 

それから出産3週間後、箕面へ引っ越しをしました。

父親は当時三井物産に勤め、6歳上の姉と2歳上の兄、雑種犬が一匹、

一見ごく普通の家庭でした。

 

ひとつだけ違っていたのは、母親が少しおかしいと子供ながら感じた点です。

 

その頃の忘れられないエピソードがあります。

母はある日、私たち兄弟3人を正座させ、神妙な面持ちでこう言いました。

「あなたたちよく聞きなさい、今日この世が終わります」

ええ?どういう事?今日私死んじゃうの?

4,5歳だった私は心の中でパニックです。

そして母はこう続けました。

「でも安心して、この世が滅びる前に神様が一瞬で救ってくださるから、覚悟だけしておきなさい」

兄弟三人は相談するでもなく、ただただ黙って解散しました。

私は5歳にして死を間近に感じ、途方に暮れ、泣きじゃくるしかできませんでした。

ところが次の日は普通にやってきました。

母親は何のフォローもなし。

そんな母に聞く勇気もなく、とりあえず生き延びたことに胸をなでおろしました。

 

 

現在母は他界していますが、時々夢に出てきます。

大抵の夢は、母が生き返り普通の顔して私の前に現れるのです。

そんな事はありえないのですが、私は目が覚めると、夢だった事に逆に驚きます。

あの母だったら現実に起こりうると、信じさせてしまうほどの強烈な人だったのです。

 

箕面での生活は、多少母親が変で、父親との喧嘩が時々警察を呼ぶレベルだったくらいで、まだまだ幸せだったと思います。

そんな暮らしが小学1年から激変します。

 

 

(時代を感じるこの写真・・・丈夫で育てやすい子でした)

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

メールマガジン VOL.2

MAILMAGAZIN  2017/03/31 VOL.2

 

 

 

季節に合った温活方法やお得情報など、

ちょっと役立つ方法を月に1,2回ほどお届け。

Let’s温活!

 

 

 

 

早いもので今年も 3か月がすぎ、4月となりました。

例年より遅めの桜の開花があちこちで見られる今日この頃ですね。

さて、皆様は花粉症は大丈夫でしょうか?

花粉症や風邪などで鼻がつまってどうしょうもない時、

どうされていますか?

その時の状態を、鼻が「つまる」という言葉通り、

鼻水が多くてつまって出ないから苦しいのだと思う方が多いのですが、

実はこの時、鼻の中では血管がうっ血して腫れているのです。

だから鼻水や息がスムーズに通らず、いくら鼻をかんでも治らないのです。

では、鼻の内側のうっ血と晴れを一体どうすればよいのかというと、

血行を良くして流れをよくすることです

血流は温めるとよくなりますが、直接鼻を温めるのではなく、

足元を温めるといいそうです。足元から血液が循環します。

足湯や半身浴がもっとも効果があります。

しかし、日中は足湯なんかしてる暇がない!

そんな時は、靴下の重ね履きが効くのです。

ゴムがきついと逆効果、弊社のdouble socksは1枚目は完全ゴムなし、

2枚目は緩い口ゴム1本のみ!

花粉症でお悩みの方は一度お試しください。

 

 

 

 

 

 

 

先日3月 20日、Brooklyn Roasting Campany なんば店にてTHE FLEAが開催されました。

 

180坪の店内に、古着屋アンティーク、デザイナーによるジュエリーや雑貨など25ブースが出店され、

 

 

シンド・フジもNUXシリーズから黒糖ジンジャー、

この日のために用意したBluesmilesさんの焼き菓子とのコラボ商品などを

携えて出店させていただきました。

 

 

沢山の方々にお越しいただき、おかげさまで大盛況。

楽しい一日となり感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

 

◎新発売◎

冷えが起こる原因のひとつは、自律神経の乱れです。
仕事が忙しかったり、夜遅くまでPCやスマホを見たりしていませんか?

全て国産の天然素材にこだわった、目に優しいアイピロ―が出来ました。

レンジで30秒チンするだけ、小豆の蒸気とヒノキの香りで疲れが解きほぐされます。

300回繰り返し利用できます。

 

 

◎期間限定◎


【春限定】黒糖ジンジャー×Blue Smilesコラボ☆

Blue Smilesさんから春限定ののおやつ、届きました。
サクラの風味が口中に広がり、思わず笑顔がこぼれます。
サクラの紅茶には、黒糖ジンジャーを入れてまだまだ寒い日にも温かく。
とびっきりスペシャルな春のTEA TIMEをお楽しみください。

【完全予約制】
3月24日〜4月5日まで予約受付、お届けは4月7日発送。
7日以降の日時指定も出来ます。

 

 

 

 

 

 

2017年4月12日(水)〜4月18日(火) 川西阪急1階リビング・イベントスポット

2017年4月28日(水)〜5月2日(火)宝塚阪急リラクシング売り場内イベントスペース

2017年5月30日(水)〜6月6日(火)西宮阪急1階バスリラクシング売り場内イベントスペース

 

にて、催事出店いたします!!!

 

私事ですが、起業した際に「百貨店に認めてもらえる商品作りを」

という目標を掲げていました。

2年目にして掴んだチャンスに嬉しくもあり、また正直不安もあります。

しかしながら、ひとりでも多くの方に弊社の商品を通じて温活の大切さを知ってもらいたい!

その気持ちを胸に精一杯頑張る所存でおりますので、

どうかお近くにお越しの際は、ブースまでお気軽にごらんください。

心よりお待ちしております。

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

ご来店お待ちしております。

 

 

 

 

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[ SHINDO FUJI オンラインショップ ]
株式会社シンド・フジ
ADDRESS: 大阪府大阪市東淀川区井高野3-9-9
E-MAIL : info@beauty-nux.com
TEL    : 06-6340-4389
URL    : http://beauty-nux.com/
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イベント出店のお知らせ

『イベント出展のお知らせ』
2017.3.20 10:00-17:00
Brooklyn Roasting Campanyなんば店
にてTHE FLEAが開催されます。
質の良い古着やアンティーク、デザイナーによるジュエリーや、フード、雑貨など25ブースが出店。

シンド・フジもnuxシリーズに黒糖ジンジャー、またBlue Smilesさんの焼き菓子とのコラボセットなどを販売予定です。

白砂糖やケミカルな素材一切不使用のイルカのクッキーや

さくらと小豆のスコーンなど、ちょっぴり春を意識したプチギフトがおススメです。
同ブースにはデザイナー@satomitakabeによるSSの新作ワンピース等も発売予定です。
180広い店内で、コーヒーやビール、ピザを片手に商品をご覧になるなどいかがでしょうか。
お気軽にお声がけください、お待ちしております。